おととし、初めて「ふるさと納税」をした。納税先は、岩手県陸前高田市。「お礼」に届いたのは、ホタテやアワビなどの海産物。その滋味あふれるおいしさに感激し、「この魚介を育んだ陸前高田の広田湾とは、どれほど豊かな海なのだろう」と、まだ訪れたことのないその地に思いを馳せた。
だが皮肉にも、その「豊かな海」からやってきた津波によって、陸前高田は壊滅的な被害を受けた。本書に登場する老舗醤油蔵・八木澤商店もその例外ではない。
八木澤商店は、3.11のあの日、昔の姿を留めた美しい街並みごと津波に呑まれ、200年以上の歴史をもつ土蔵も、150年使い込んだ杉桶も、そして醤油屋の命ともいえる「もろみ」も、製造設備のすべてを失った。
本書は、八木澤商店の人たちが廃業の危機に直面し、次々に降りかかる困難と対峙しながらも、再び醤油を造り始めるまでの記録である。しかしそれは、一企業の事業再生物語にとどまらない。
震災から5日目の朝、八木澤商店9代目・河野通洋氏は、社員たちに決意を語った。
八木澤商店は、大切にしてきた蔵や微生物を失いましたが、一番の宝物は残りました。それは社員の皆さんの命です。必ず、八木澤商店は再建します。何がなんでも再建します。
そして、「全員解雇して、失業保険をもらってください」とハローワークに指導される状況にありながら、一人も解雇せず、内定していた新入社員たちも受け入れ、物資の配達や遺体捜索などのボランティア活動にも仕事として満額の給料を支払うと約束したのである。
「八木澤さん、また一緒に商売しようね」と手を握ってくれた、まんじゅう屋のおばあちゃん。泥だらけになりながら避難所を訪ねてきて、「地元の企業、一社も潰しませんから」と涙を流し、その場で借入金の返済凍結を約束してくれた銀行の支店長。原料を無償で提供してくれた、従業員7人の酢造や商売敵の同業者たち。プレミアがついて高値で取引されている未開封の生醤油を送り返してくれた、全国のファン……。
たくさんの人たちに支えられて、ついに津波で失われたはずのもろみが奇跡的に発見され、それが八木澤商店で醤油づくりを再開する大きな力となるのである。
で、あるのだが……正直に白状すれば、悲しいかな「こんなにできた経営者が本当にいるの?」「こんなかたちでもろみが戻ってくるなんて、偶然にしてはすごすぎない?」というひねくれた疑問が、読む私の心の片隅にあったことも否定できない。
でも、読み進めて納得した。八木澤商店の危機は、これが初めてではなかったからだ。
1997年、アメリカ留学から戻って父が経営する八木澤商店に入社した通洋氏は、当時の経営状態の厳しさも手伝って、社員の気持ちを考えず、「信頼関係などクソくらえ」という態度で利益をあげることだけにやっきになっていた。
そんな時に参加した、地域の中小企業家同友会の半年間の講座。通洋氏は、銀行からほめられた経営指針と事業計画書を自信満々に発表。その一方で、ほかの受講者たちは自分のふがいなさに涙を流し、経営指針を自社に持ち帰っては社員とぶつかって、苦労しながら変わっていった。
残り1か月になった頃、「俺だけ、何も変わってない気がするんだけど……」とつぶやいた通洋氏に、受講仲間がかけた言葉は痛烈だった。
おめえんとこの社員は、ほんっとにかわいそうだな(中略)人間は機械やロボットじゃねえんだ。どこの本で読んできたんだかしらねえけどよ、てめえのつくった経営理念は、ぜーんぶ道具だ。なんのために仕事すんのか、目的がひとっつも書いてねえ(中略)銀行に評価されたことが、そんなに偉いのか? 人間の価値、っていうのはそういうもんなのか?
社員たちに言ってしまったひどい言葉の数々、失ったものの大きさにようやく気付かされたものの、社員たちとの信頼関係の修復はほぼ不可能なところにまで行ってしまっていた。話し合おうとしても相手にされない、品質不良の事故は起きる……。妻にまで、「まずは自分が悪かった、ってとこに立たなきゃ、なんにも始まらない」と言われてしまう。
だが、ここで通洋氏は変わった。友人や家族の厳しい言葉は、心から心配してくれている愛情のあらわれである。
俺には、これができなかったんだ。捨て身で社員と関わってこなかった。自分の保身を考えずに相手と向き合う、人間的な温かさが欠けていたんだ。……保身のない言葉は、人を動かすんだな……
こうして傷だらけになりながら社員と向き合い、危機を乗り越えてきた経験こそが、災害にも負けない再建への強い力となったことは想像に難くない。そして、一見「奇跡」や「偶然」に見えるもろみの発見も、その経緯は人にも仕事にも真摯に向き合ってきたがゆえにもたらされた「必然」だったとしか思えない。
私たちは、皆でものをつくって「一緒に生きている」という感じです。ただ仕事、というだけじゃない。本気でぶつかるけど、それが強いです。高田の町が、会社の中に小さくできているみたい。この地域に残ってみたいと思ったのは、それを感じたのもあります。生きるということの、大事な部分がここにある、って。
これは、震災のとき入社2年目だった社員の言葉である。
――「ブラック企業」という言葉が頻繁に使われ、パワハラが横行し、誰かが助けを求めていても見て見ぬふり。そんな壊れてゆく社会のなかで、本書に登場する人たちの姿は、読む者に自身の生き方を問い、働くことの意味を考えさせ、人を動かすために必要なことを教えてくれる。
そしてまた、人間とは希望なしには生きられない存在であり、その希望は自分たちの手で創り出さなければならない、ということも。
昨年末、再び陸前高田にふるさと納税をした。「お礼」は、八木澤商店も関わって開発している地元食材を使ったスープのセット。私が一方的に知っているだけだが、「あの人たちが一所懸命につくってくれた」と思うと、それだけで嬉しくなってくる。
おいしいスープと一緒に、「人間って捨てたもんじゃないのかも」という喜びを、味わいながらいただいた。
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