今ここに、数冊の文庫本がある。角川グループパブリッシング発行、どれも2011年3月以降に印刷されたものだ。私の目には、他の文庫本とそれほど違いはないように見える。軽く、柔らかい文庫本。しかし、印刷された物語とはまた別の、ある物語を秘めた本。今ここにあるこの本は、もしかしたら未曾有の大震災を奇跡のように生き残った紙で作られたものかもしれないのだ。
2011年3月11日、14時46分。東北地方を襲った地震と津波。いわゆる東日本大震災は、宮城県石巻市に大きな被害をもたらした。石巻市の当時の人口は16万2822人、総務省統計局によれば津波による浸水範囲内人口は11万2276人、石巻市の発表した震災による死者は3270人、行方不明者は436人。数字で見るだけでも、恐ろしいことが起こったとわかる。そしてこの震災は、石巻市にあった日本製紙の基幹工場である石巻工場にも、壊滅的な被害をもたらしていた。
敷地の南側を太平洋岸、西側を工業港、東側を旧北上川と囲まれた石巻工場は、地震後、三方から巨大な津波に襲われた。約33万坪の敷地に水が押し寄せ、周辺から家屋や瓦礫、車、そして人、あらゆるものが流れ込み、覆い尽くした。総務課や守衛に誘導され避難した従業員からは、非番の者を除いて被害者を出すことはなかったが、水に浸かった工場を見て、誰もがもうだめだ、と思ったという。
工場正門の前にある日和山に避難していた従業員たちは、自分の街と工場が沈むのを見ていた。
「おしまいだ、きっと日本製紙は石巻を見捨てる」
誰もがそう思った。その日、多くの者は、家を失い、家族を失い、知人を失い、石巻工場を失った。感情がうまく働かない者も大勢いた。
「石巻工場壊滅」。あの日、石巻工場に何が起こったのか。工場長以下幹部が出払った工場で、留守を預かる総務課主任、村上氏は、出先から急いで戻り、避難を指示した。当時、工場内にいたのは1306名。大津波警報が発令されていた。今回は絶対に津波が来る、そう直感していた村上氏によって、速やかに避難指示が出され、持ち場を離れたがらない“職人”従業員たちも日和山へ向かう。
一五時四八分、地震発生から約一時間後。ゴゴゴゴゴゴ……という異様な音が聞こえた。
村上が海の方向に目をやると、約一キロ離れた海に土煙が上がり、真っ黒い壁が立ち上がったかと思うと、それが街を押し潰すところが視界に飛び込んできた。眼下に見える家々は、一階部分がまるでダルマ落としのようにひしゃげ、二階部分のみがちぎれて玉突き状態で流れてくる。
同じく激しい揺れに見舞われた日本製紙東京本社では、社長の芳賀氏が必死に情報を集めていた。宮城県内には、石巻と岩沼、二つの工場がある。テレビ画面には波が押し寄せる仙台空港、名取市内の田園を水が走っていく場面が映し出されていた。が、しかし、石巻市の映像はない。被害状況がテレビに映し出されないことが、逆に被害の深刻さを予感させていた。
生々しい11日の様子。避難した山で見た地獄のような光景。しかし結果として、1306名は全員が無事に避難し、一人も命を落とすことはなかった。
従業員は全員が無事であっても、工場はまさに「壊滅」。瓦礫の山で入ることもできない。そしてその工場は、日本の出版用紙の4割を供給する日本製紙の、心臓部ともいえる基幹工場である。工場の危機はすなわち、日本出版界の危機でもあった。出版用紙の供給という差し迫った問題があった。そして基幹工場の「壊滅」は、日本製紙に重要な舵取りを迫っていた。紙の市場が年々縮小傾向にあるのは間違いない。出版界だけでも、『出版指標』によれば2000年の書籍・雑誌の推定販売部数はおよそ41億8000万冊だったのが2012年には25億6000万冊と減じている。出版用紙の供給を大きく担っていた日本製紙、多種多様な用紙の生産技術を持ち、出版界の需要に応え続けてきた日本製紙が、石巻工場の被害を受けてどのような方向に向かうのか。また、その舵取りは、石巻市にとっても重要なことだった。地域の大きな雇用を生み出してきた工場。関連業者も含めると、その経済効果は非常に大きかったはずだ。石巻工場を再生させるのか、それとも閉鎖させるのか。
その後、芳賀はクラブハウスの前に立った。それを従業員たちが囲む。みな、不安な表情を浮かべていた。
芳賀はこう宣言した。
「これから日本製紙が全力をかけて石巻工場を立て直す!」
3月26日、石巻入りした社長、芳賀氏の力強い一声に、歓声があがった。そして、ここから本格的に石巻工場は再生への道を走り始める。半年後に一機を再稼働させるという目標の下、全国の全従業員が一致団結した。それは、希望の光だった。大きな絶望になすすべなく晒された人々にとって、支えになる未来の光だった。そして、そのことを、社長の芳賀氏、工場長の倉田氏ら上層部は、よくわかっていたに違いない。
当初、倉田工場長以下石巻側は、日本製紙最大のマシン、最新鋭機N6を再稼働させるべく動いていたが、東京本社の営業部の要請で、8号抄紙機を復旧させることに変更した。8号抄紙機は、単行本や、各出版社の文庫本の本文用紙、コミック用紙を製造していた。高度な専門性を持ったこの抄紙機で製造される紙は、他の工場では作れないものも多く、営業部の要請は妥当であるともいえる。「出版業界が8号を待っている」。「出版社が石巻を待っている」。本社の海外販売本部長、佐藤氏は言う。
日本製紙のDNAは出版用紙にあります。我々には、出版社とともに戦前からやって来たという自負がある。出版社と我々には固い絆がある。ここで立ち上げる順番は、どうしても出版社を中心にしたものでなければならなかったのです。
石巻工場の8号抄紙機リーダー、佐藤憲昭氏にも、強い誇りがあった。日本の出版文化を支えているのは石巻だ、「出版業界が8号を待っている」。「出版社が石巻を待っている」。
書店で自分たちの作った紙に会ったらどう思うかって?『ようっ』て感じですね。震災直後、風呂にも入れない、買い物も不自由。そんなささくれだった被災生活の中で、車に乗って俺たち家族はどこへ行ったと思う?書店だったんですよ。心がどんどんがさつになっていくなか、俺が行きたかったのは書店でした。
俺たちには、出版を支えているっていう誇りがあります。俺たちはどんな要求にもこたえられる。出版社にどんなものを注文されても、作ってみせる自信があります
一言に抄紙機を動かす、と言っても、単にスイッチを入れればいいというものではない。まずは電気を通し、ボイラーやタービンといった周辺設備を動かさなければならない。工場の電気設備は押し流されたり、多くが海水に浸かってしまっていて、復旧は困難を極めた。しかし、従業員たちは強かった。瓦礫をどかし、汚泥を取り除き、作業は徹夜に及ぶこともあった。その原動力となったものは、何だったのだろうか。
街はまるで空襲にでもあったかのような焼野原となっており、その光景が延々と続いている。明るい話など、ほとんど聞かれることはなかった。
あそこで何人、誰かの家族が何人、と死亡者の数が増えていく。そんな状況の中での工場の復旧は、自分たちの力で唯一手に入れることのできる未来だったのかもしれない。
自分たちの力で未来の光を手に入れる。一歩一歩前進する従業員にとって、明るい光はもう一つあった。日本製紙石巻硬式野球部の存在だ。社会人野球に属する野球部は、震災に傷つけられた石巻の人々の期待という重圧の中、リーグの中で力を尽くして戦っていた。その姿に勇気づけられる人々はきっと多かっただろう。「ハンカチ王子」斎藤佑樹が楽天、田中将大と戦った甲子園の名戦、2006年夏の甲子園大会決勝戦、早稲田実業対駒大苫小牧。その時の早稲田実業キャプテンだった後藤貴司氏は、大学野球で活躍した後、ちょうど震災のあった2011年、日本製紙石巻硬式野球部に入部した。瓦礫を拾うことから始まった石巻での社会人生活。一章を尽くして語られる石巻工場のもう一つの戦い、野球部員たちの苦悩と運命には、思わず涙がこぼれる。
そしてまた、各章の合間に語られる震災被害を受けた人々の姿は生々しく胸に迫る。助け合う姿、思いやり、悪意。今だからこそ語られる真実の姿がそこにある。
8号抄紙機の復旧、石巻工場の再生の物語がその後どうなったのか、今ここでご紹介するのはたやすい。しかし、止しておきたいと思う。最初から、石巻工場で作られたこの本の紙、一枚一枚をめくりながら、この物語を辿り、その結果を知ってもらいたいと願うからだ。石巻の物語を石巻の紙で読んでもらいたい。指で、匂いで、五感のすべてで石巻の紙を感じ取ってもらいたい。あの日、日本中が東北を支えたいと願った。だが、東北にはプライドをかけて日本を支えようとする人たちがいた。石巻工場は、プライドをかけて日本の出版を支えた。
震災があった当時、私は島根県の小さな書店に勤めていた。日本製紙の工場が被災し、書籍や雑誌の新刊刊行、重版が遅れる可能性があるという連絡がきていた。あの頃、紙のためだけでなく、インクなど様々な理由で刊行予定は遅れることがあった。話題書や定番書が品薄になるという噂もあり、在庫確保に動く書店もあった。毎日お客様に状況を説明し、頭を下げていた。もし紙不足がより深刻なものとなっていたなら、それは出版社だけではなく、本の流通に関わるすべての人間の生活を脅かしただろう。一人の書店員として、頭が下がる。そして、一人の本好きとして、紙の技術が守られたことがありがたく、その苦闘の物語に感動を覚える。
8号抄紙機を復旧させるための作業の途中、倉庫に調査に入った従業員が、奇跡的に無傷のままの角川文庫用紙のロールを発見した。あの地震と津波の中、いったいなぜこのロールだけが無事でいられたのかはわからない。3月11日、あの日抄いていた角川文庫の紙。
ラップの奥から覗いているのは、どこまでも滑らかな紙の表面であり、わずかな傷すら見つからない。
震災当日に作っていたという石巻製品は、色白の女の肌のように一層美しく、むしろ完璧だったのだ。
この文庫用紙はその後、本に加工されて、今も誰かの本棚に挿されているはずだという。