現実として受け容れ難いほどの大惨事は、誰の身にも起こりうる。東日本大震災、阪神淡路大震災、JR福知山線脱線事故――。しかし、突然の喪失にどう向き合えばよいのか、どうすれば悲嘆の渦中にいる人たちに寄り添うことができるのか?多くの人はあらかじめ、答えを持たない。
その時の道標として読んでおきたい本に出会ったので、紹介したい。1992年に単行本として出版され、このたび文庫化された。
1985年に起きた、日航ジャンボ機墜落事故。折しも夏休み、家族連れやビジネスマンで満席だった旅客機は羽田を発って間もなく操縦不能に陥り、群馬県上野村の御巣鷹山に墜落。520人の命が喪われた。
本書はその日航機事故を中心に、日本の修学旅行生らが犠牲になった上海列車事故(1988年)や信楽高原鉄道事故(1991年)など、大事故で亡くなった人たちの遺族がどのような状況におかれ、何を感じ、どう行動したかを追った「喪の軌跡」である。
「自分の体験を次に同じ境遇に会うかもしれない人たちのために生かしてほしい」と面接調査に協力した遺族たちの肉声は、読み進めるのが苦しくなるほどの痛みを伴う。精神科医であり作家でもある著者は、語りながら泣き出す遺族を前に自責の念に苛まれながらも、一人ひとりの経験を真摯に考察してゆく。
日航機事故において、五体がそろった遺体は3分の1以下にすぎなかった。
「虫の死骸にもさわれなかった」という40代半ばの主婦Kさんは、身元不明の部分遺体を一つひとつ調べ、右腕、胸とお腹の一部、右足の先と、少しずつ夫を取り返す。そして自分の夫だけでなく、残っている遺体をなんとか遺族のもとに返そうとする壮絶な社会への働きかけを始める。
遺体確認に法医を入れるよう日航社長や運輸省に直談判し、身元のわからない部分遺体の荼毘を延期するよう交渉し、荼毘の前に遺体のデータを遺族全員に送るよう申し入れたのだ。
しかし、遺族も一枚岩ではなかった。「あの状態で置いておくのは死者への冒涜だ」と荼毘を急がせる人、「なぜもっと頑張ってくれなかったのか」とKさんを責める人。遺族たちのまとまりのなさを前提に「遺族の気持ちになって」と、ことを進めてしまう日航や警察。
結局、遺体のデータは遺族に届かなかった。
少しの間、本を閉じて想像してみる。自分が、右腕だけになった父や母を手にとり、お腹だけになった弟と対面する。――ありえない、ありえない、ありえない、ありえない、苦しい。
Kさんにとっても、それは「絶対にありえない」ことだった。事故の2年後、Kさんは著者にこう語る。
事故直後は、よく自分の泣き声で目を醒ました。……今でも、現地の遺体の状態がありありと頭に残っている。遺体番号を思い出すと、足がどうなって、これがこうなってと、遺体の有様が浮んでくる。番号と遺体の姿が頭のなかに繋がっている。それを、どうやって消すことができるのだろうか。
その一方で、遺体を自分の目で確認できなかった人たちの無念も綴られる。
柩の前で倒れる人が多いなか、大企業役員の妻・Nさんは「私が倒れて迷惑をかけてはいけない」と自制し、夫の遺体を見ることなく荼毘に送った。それをずっと悔いている。
もっと真剣に遺体を確認すべきだった。どんなにむごい遺体でも、一寸角でもいいから、主人の肌にじかに触れてあげるべきだった。周囲に遠慮したり、良い方に解釈したり、皆が見させまいとするのに言いなりになってしまった。なぜ「確認しなさい」と勇気づけてくれなかったのか。たとえ貧血をおこし、失神をしてでも、そうすべきだった。この悔いを、私は一生背負っていかねばならない。
愛のないところに悲しみはない。故人のために十分に悲しむことは、遺族がその後を生きてゆくためにも必要である。だがその「正常な喪の作業」がゆがめられると、感情をこじらせ、大きなわだかまりを残してしまう。
愛する人をお金に変える補償交渉と補償金の問題も、すさまじい葛藤を遺族の心に呼び起こす。故人への想いを置き去りにして金額の多寡ばかりが論じられ、「たくさんもらったんでしょう」と的外れに妬まれ、遺族同士が疑心暗鬼に陥ることも少なくない。
事故で次男一家を喪った母親は語る。
大学院まで出して、本当によく出来た息子で望みをかけていた。それなのに、書類の上では「三三歳の男、会社員」だけ。あの子の能力を認めてほしかった。書類に表すとか、言葉にして聞かしてもらうとかができたら、少しは気持ちが済んだのに。
こうした補償交渉において、多くの補償金をとることこそが有能と思い込んでいる弁護士や代理人が、遺族の怒りや抑うつを遷延化させることが少なくないという。
「なぜ死なねばならなかったのか」本当のことを知りたい、加害者側と公正に話し合いたい、せめて苦しみを聴きとれる人になってほしい、という遺族たちのささやかな願いさえも叶えられない数々の事例には、あまりの理不尽さに憤りを覚える。マスコミにありがちな遺族の心情を無視した「美談」づくりや加害者に自責感の乏しい「慰霊」が遺族の心の深部をもう一度傷つける様には、怒りを超えて疲れを感じる。
そしてまた、身近な人が励ますつもりでかけた言葉も、追い詰められた遺族には棘のように突き刺さってしまうことがある。
年老いた母親に「二人とも未亡人ね」と慰められて、「私よりずっと長く夫と暮らせたのに」と腹を立てる。喪主として奔走しながら夫の部分遺体を見つけ出せば、近所の人に「あなたみたいなことできないわ」と言われ「できる、できないではなく夢中でしているだけなのに」と心のなかで反発する。新聞記者に亡くした次男一家のことを「時どき、思い出しますか?」と聞かれて「頭のなか、あの子らのことばかり流れてるんや。ご飯食べていても、マーケットに行っても、小さい子を見ても、何をしていても、あの子らのことばかり。それを塞き止めて、他のことを考えようと必死なんや。思い出すぐらいなら幸せや。そんなこと聞いてくれるな」と喰ってかかる――。
私自身、親友を突然喪ったとき、「元気を出して」と励まされるのが辛かった。元気なんて出るわけがない。彼女は帰ってこないのだから。八つ当たりに近い感情だとわかっていても、悲しみの急性期には、どうにもならないことがある。
どうしたらよいのか、何をしてほしいのかさえ、わからなくなってしまっている心情が、事故で夫を亡くした女性の言葉によく表われている。
本当はものすごく寂しい。ものすごく苦しい。誰もいない所で、ひとりで泣きたい。誰かに苦しいと言いたい。誰かと喋りたい。本音を聞いてもらいたい。そのことにずーっと気付かずにきたことに、この頃気付いた。でも、人に会いたくない。人の顔を見たくない。特に遺族とは話したくない。話が通じるのは遺族だけれども。二人の私がいる。どっちの私が、本当なのか。
だがしかし、身近な人にさえわかってもらえない状況のなかでも、加害企業の社員である世話役と心を通わすことができた遺族もいた。
世話役とは、事故後の遺族との対応を円滑にするために作られた制度である。日航機事故でも遺族に世話役がついたが、心無い言葉や態度で遺族の感情を逆なでし、嫌われた世話役も多かった。著者は世話役との軋轢について、こう指摘している。
基本的な問題は、何のための慰霊であり、何のための世話役であり、何のための補償なのか、加害企業の側で十分に考えたことも理解もないことから来ている、と私は思う。
それでも、「夜も寝ずに情報を集め自分の体をいとわず動いてくれて、彼からは事故を起こして本当に済まなかったという気持ちが、ひしひしと伝わってきた。家族を奪った会社の人であっても、本当に感謝している」「初めて会ったとき、まず謝られた。一周忌にも世話役ではなくなっていたのに、家まで来てくれた。今でも葉書がくる。補償交渉ではきちんと主張するように念押ししてくれた。彼のことは、今でもいい人だと思っている」――こんな被害者と加害者側のつながりかたも、あったのだ。すべての世話役が彼らのように遺族に向き合い、会社もそれをしっかりと受け止めていたならば、多くの遺族はもっとずっと気持ちのうえで救われていたはずである。
結局、人を傷つけるのも人。癒すのも人。巨大組織であっても、動かしているのは一人ひとりの人なのだということを痛感させられる。
ほんとうの和解は、加害者が遺族ときちんと対話することを通して共に悲しみ、心から悔いて謝罪し「悲劇を決して繰り返さない」と行動で示したとき、ようやく入口に立つことができるものなのだろう。
本書には、マスコミ取材合戦の功罪、片親を喪ったことで起きる子どもとの確執、社会的地位のある人たちの無神経な発言、故人の遺志を継いで社会的活動をする遺族の姿なども、報告されている。自分が「加害者」にならないためにも、よりよく生きるためにも、少しでもたくさんの人に読んでもらえればと願う。
大切な人を理不尽に亡くした悲しみが、完全に癒えることはない。生きている限り私たちはずっと、先に逝ってしまった人たちを心のなかで弔い続ける「喪の途上」にある。
本書に登場した人たちが、悲しみを抱えながら、その喪失と共に生きてゆくすべを、どうぞそれぞれに見つけてくれていますように。事故や災害で大切な人を喪って、今はまだこの本を読み進めるのが辛いと感じる人たちにも、新しい頁を開いてみようという気持ちになる日が訪れますように。
未来を奪われた犠牲者たちの無念、大事故遺族として苦しんだ経験と「同じ過ちを繰り返してほしくない」という本書に込められた想いを、今、私たちはきちんと受け継いでいるだろうか。
ユダヤ人精神分析学者が、ナチス強制収容所での体験を綴った不朽の名著。生きる意味とは、人間の本質とは何か、根幹から問い直さずにはいられない。
「子どもを失うと、親は人生の希望を失う。配偶者を失うと、共に生きていくべき現在を失う。親を失うと、人は過去を失う。友を失うと、人は自分の一部を失う」――この言葉に共感する人に読んでもらいたい、グリーフケアの古典的名著。
「死者たちは『課題』を残していなくなるのではない。死者は、『課題』のなかで、君たちと共に生きる、ひそやかな同伴者になる」――東日本大震災の後、「復興、復興」という風潮のなかで見過ごされてきた「死者」の存在に光を当てた、人間への深い慈しみを感じる心の一冊。