子どものときに思い描いたような大人になることは難しい。スポーツ選手、政治家や科学者など、小学校の作文に書いた「大きくなったらなりたい職業」に就ける者など一握り。著者のロバート・M・サポルスキーも、物心がつく前からの夢を実現できなかった。熱意と努力が不足していたわけではない。選んだ夢のスケールが大きすぎたのだ。「マウンテンゴリラになる」という夢は、核の力を解き放ち、月に立った人類にもまだ荷が重い。
サポルスキーは、筋肉の鎧の上に体毛をまとい、ナックルウォーキングする日を漫然と待っていたわけではない。ニューヨークという大都会に生まれ育ちながらも心はアフリカに飛んでいた彼は、アメリカ自然史博物館に通い詰め、マウンテンゴリラのジオラマの前で入念にゴリラになるイメージトレーニングをしていた。12歳になる頃には霊長類学者にファンレターを書き、14歳のときの愛読書は霊長類の専門書、高校の3年間は医大の霊長類研究室にもぐりこんで雑用をやっていたというのだから、ゴリラ界のエリート中のエリートであることは間違いない。
ゴリラになるためだけに生きてきたサポルスキーだが、突然その夢を諦めざるをえなくなる。大学で学問を進めるうちに、ストレスが身体に与える影響を解き明かしたいという欲求を抑えられなくなったのだ。その謎の解明のためには、高度な社会集団を形成して生活する動物を研究する必要があり、絶滅の危機に瀕しているゴリラは研究対象として不適格だった。そこで白羽が立ったの、サバンナに棲むヒヒ(アヌビスヒヒ)。21歳のサポルスキーはゴリラではなく、ヒヒになる決意を固め、アフリカへと向かった。
本書は、1978年から20年以上にわたって東アフリカの国立公園でヒヒの研究を続けた著者の回顧録である。サポルスキーの描写する、共謀や裏切りを含んだヒヒの高度な集団活動には驚かされるばかり。しかし、本書の範囲はヒヒの生態とその科学的解説にはとどまらない。下手な吹き矢でヒヒを追いかけまわすサポルスキーの悪戦苦闘ぶりに爆笑し、アフリカの奥地で迫りくる死の恐怖に冷や汗を流し、快楽のために野生動物を殺す密猟者に怒りを覚え、全力を尽くしても救いきれない命に哀しみがこみあげてくる。サポルスキーのユーモアたっぷりな筆遣いは、喜怒哀楽の全てを揺さぶる力がある。
原著『A PRIMATE’S MEMOIR』の出版は2001年だが、2014年現在も米Amazonには新たなレビューが寄せられ続けている。邦訳も非常に読みやすいので、日本でも長く読み続けられる本になって欲しい。なにより邦題の『サルなりに思い出す事など』というのがサポルスキーの茶目っ気を的確に表しており、原題よりもしっくりくる。ただし本書は全訳ではなく、原著の一部を割愛した抄訳版である。抄訳版とはいえ400ページ超のボリュームとなっているので仕方がないが、もっとサポルスキーの話に浸っていたかった。
野生のヒヒの群れを観察することは容易ではない。群れの関係性を把握するためにけんかやセックス、子育ての様子を記録することなど序の口。ストレスが身体や行動に与える影響を深く理解するためには、ヒヒを吹き矢の麻酔で眠らせ、重たい身体を安全な場所まで引きずり採血しなければならない。さらに、麻酔で眠ったヒヒが敵対する群れやハイエナの餌食にならないように注意する必要がある。しかも、この作業を数週間に一度の郵便物以外は外界との接触がまったくない、アフリカの奥地でやらなければならないのだ。
もちろん、これらの観察活動には危険がつきもの。サポルスキーは何度も死にかける。あるときはバッファローに轢かれそうになり、またあるときは密猟者に撃ち殺されそうになり、ついには「裸身にヤギの内臓を塗りたくった大女」に絞め殺されそうになるのだから、もうわけがわからない。読み進めるうちに「また死にかけるのかよ!」とツッコミたくなるほど、サポルスキーはいとも簡単にトラブルに巻き込まれて死にそうになるのだが、その必死な姿はなんだか笑いを誘う。
すぐ死にかけるといっても、サポルスキーを侮ってはいけない。一度はゴリラになろうと本気で考えた男、人並み以上の闘争心をもちあわせている。今ではスタンフォード大で教鞭を取るサポルスキーだが、20年以上に及ぶアフリカでの狩りの経験から、ふっくらした年配の夫婦をみかけてこんなことを考えることもあるという。うかつに彼の背後を歩いてはいけないのだ。
八十五キロから九十キロ。麻酔薬9ml。臀部を狙う。肉付きよし。彼女が倒れたらおそらく夫が守ろうとするが、夫の歯は小さい。
研究以外でのアフリカの人々との触れ合いも本書の大きな魅力だ。サポルスキーは、ルワンダやコンゴ、スーダンなど多くの地域を訪れている。そこで彼を待ち受けていたのは、アフリカの無限の多様性。どれだけ知り尽くしたと思っても、いつも新たな価値観がぶつけられる。「悪夢の存在」としてのマサイ族との小競り合いやソマリ族とのアフリカ縦断など、どのエピソードもそれ1つだけで1冊の本が書けそうなほど刺激に満ちている。
危なっかしかった大学生サポルスキーも、次第にアフリカ生活にも慣れ、博士号を取得し、家族を築いていく。そして、彼が見守る個性的なヒヒたちも、群れの中でダイナミックに変化していく。ずる賢いヒヒ、子ども思いのヒヒ、独裁的に群れを支配するボスヒヒなど、サポルスキーのヒヒたちは人間以上に人間臭い。読み進めるほどに、サポルスキーとヒヒたちが、かけがえのない存在に思えてくる。だからこそ、彼らを待ち受けていた残酷な結末には胸が詰まる。それでも、サポルスキーの底抜けの愛情とバイタリティーは、本書の読後感を清々しいものとしている。この世の素晴らしさの全てを詰め込んだような、読んでいるだけで人生が楽しくなる一冊だ。
ノーベル賞候補にもあがったことのあるポーランド人ジャーナリスト、カプシチンスキによるアフリカルポルタージュの決定版。つい”アフリカ”と一括りにしてしまう広大な大陸の豊饒さが伝わってくる。
読んでいて楽しくなる科学者の伝記といえばこちら。ファインマンさんの魅力がこれでもかと伝わってくる。成毛眞(今のところ)オールタイムベスト10の一冊。
700万年前に人類と分かれたチンパンジーに徹底的に迫る一冊。チンパンジーにまつわるあらゆる要素が丁寧に解説されている。仲野徹のレビューはこちら。