『僕は日本でたったひとりのチベット医になった』 年に一度だけ満月の下で作られる高貴薬「月晶丸」とは…     

2011年12月6日 印刷向け表示
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チベット医学と言われてもピンとくる人は少ないだろう。中国医学、アーユルヴェーダ(インド伝統医学)ユナニ医学(イスラム伝統医学)とともに東洋四大医学に数えれらている。薬師如来によって説かれたとされ、その教えは8世紀に『四部医典』(チベット語せギューシ)として編纂された。その名のとおり、根本部、論説部、秘訣部、結尾部の全156章からなる大部である。

『四部経典』を修めたものを「アムチ」と呼ぶ。チベット医のことである。そのためには「メンツィカン」という学校を卒業しなければならない。本書はそのメンティカンを日本人で、いやチベット人以外で初めて卒業した小川康の10年にわたる闘いの記録である。

東北大学薬学部を1992年に卒業した小川は、一流企業に背を向け自分の興味の赴くまま、様々な職を転々としていた。1997年、とある本屋で何気なく手にした『チベット医学入門』と言う本が彼の人生を変える。長野県で薬草栽培を手がけていたが行き詰まり、その状況からも日本からも逃げ出したい、その思いのみでメンツィカンのあるインドのダラムサラへ向かう。紹介状もあても何もないただの旅行者として、だ。しかし運命的な出会いがあった。

インドに個人旅行へ行ったことのある人ならわかるだろう。何の知識もなくデリー空港に降り立ち、浮き足立った小川は「飛んで火にいる夏の虫」だった。軟禁され有り金全部ふんだくられるところを這う這うのていで逃げ出し、ダラムサラ行きのバスで出会ったのが、メンツィカンの教師、ドクター・ツェリンであった。拙い英語で「チベット医学を学びたい」という思いを伝えたが、チベット語の1.2.3もいえない日本人には夢のまた夢であった。

しかしそこから2年5ヵ月後、血のにじむような努力の末、小川康はメンツィカンの入学試験に合格する。史上初めてとなる外国人の挑戦は、奇跡の合格という結果を生んだ。金持ちの日本人というやっかみから「裏入学」という噂も出たが、結局は初の外国人枠ということで特別に入学が許されたのだ。ただ、チベット人は学費無料だが、小川には年9万円の授業料が課せられた。

チベットは1951年に中国政府に制圧され、ダライラマ14世はインドへ亡命し、このダラムサラに亡命政府を樹立し暮らしている。法王の後を追ってチベット本土から10万人を超えるチベット人がヒマラヤを越えて亡命している。ダラムサラではチベット仏教をはじめとした独自の文化が育まれているのだ。

チベット医学は薬草を学ぶことである。それもすべて学生たちが山に入って採取する。ものによっては険しいヒマラヤの山岳地帯の深部まで入る必要がある。山歩きに慣れていない小川は遭難し、九死に一生を得る。

また、同級生のほとんどは10代。民族の違いは当然のことながら、世代格差もある。薬学部を卒業したというプライドも邪魔をする。そのため、どこへ行っても衝突を繰り返す。いじめにあっているという被害妄想、日本へ帰りたいというホームシック。それを思いの留まらせたのも同級生たちであった。

圧巻は薬作りの過程だ。漢方では生薬をそのまま煎じて服用するが、チベット医学では抽出されたエキスを丸薬にするのが普通である。チョコボールほどの大きさなので、そのまま飲み込むのは難しい。中でも高貴薬と呼ばれる貴重な薬はひとつひとつがきれいな布で包まれ貢物として珍重された。

月晶丸はその中でも特殊な薬である。一年に一度、満月が輝くチベット暦8月15日の夜、月光を浴びつつ深夜まで作業を行う。この日、雨は絶対に降らない。硬石膏にトリカブトと硝酸をあわせて煮込み、粘土状になったものを焼いて乾燥させ、白い粉になったものを石の上で牛乳と混ぜ合わせる。「月のクールな性質をとりこむため」という理由がつけられている。主に胃潰瘍などに用いられるこの薬の製造は夜明け前4時半まで続いた。

卒業の最後に、教科書とも言える『四部医典』の暗誦(ギューズム)に取り組む。生徒全員への課題ではなく、希望者のみに行われる、いわば特別な卒論のようなものだ。小川康は8万字、4時間を越える暗誦に挑む。

現在では正式なチベット医のアムチとなり、帰国。チベット医学と日本古来の伝統医療の普及紹介に努めているという著者。長野県にあるアムチ薬房を一度訪ねて見たいと思う。

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小川康がチベットへ旅立つきっかけとなった一冊。人生の転機には何かしら本が関係することは多いような気がする。

西蔵漂泊―チベットに魅せられた十人の日本人〈上〉

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チベットに関わった10人の日本人の記録。この本を読んでいたことで、メンツィカンに入学することができた。

中国はいかにチベットを侵略したか

作者:マイケル・ダナム
出版社:講談社インターナショナル
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本書の根幹ともなる、中国のチベット侵略について詳しく書かれた一冊。

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