『医者は現場でどう考えるか』

2011年11月12日 印刷向け表示
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医者は現場でどう考えるか

作者:ジェローム グループマン
出版社:石風社
発売日:2011-10
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ある冬、軍事演習を行っていたハンガリー軍の少尉は偵察隊をアルプス山脈に送り込んだ。その直後降り始めた雪は2日間にわたって止むことはなく、少尉は「彼らを殺してしまったのでは?」という不安に苛まれていた。しかし、3日目に奇跡が起こる。彼らは全員無事に帰ってきたのだ。驚く少尉に調査隊のメンバーがその経緯を話し始めた。

「地図もコンパスもなく自分がどこにいるかも分からなくなり、死ぬのを待つのみという状況だった。ところが、メンバーの1人が滅多に使わないポケットから折りたたまれた地図を発見し、我々は冷静になることができた。その地図は周りの地形と完全に一致はしなかったが、地図を頼りに自らの位置を確かめることで、何とかここまで辿り着けた。」

彼らの命を救ったその地図を見せて貰った少尉は再び驚くことになる。

それはアルプス山脈の地図ではなくピレネー山脈の地図だったのだ。

組織論の大家であるカール・E・ワイクによって紹介されたこの逸話は、ビジョンを描き、それをメンバーに明確に示すことの重要性を説明する事例として様々なビジネス書で紹介されている。ときにはビジョンが完全に正しいものでなくても、進むべき方向性が示され、メンバーが自信を持って歩を進めることが重要であるという説明が加えられているものが多いのではないだろうか。

なるほど、資本の集約性が低く、カジュアルな失敗が許されるビジネス環境であれば、アクションを起こさないことの方がリスクの方が高くなり、『一勝九敗』の精神で行動することには一定の合理性がありそうだ。完璧なプランを作るために時間をかけていれば競合に出し抜かれてしまうことになり、明確なビジョンが示さなければメンバーは全力で突き進むことが難しい。

しかし、一度の失敗も許されない場合ではどうだろう。上記の逸話において、誤った地図で安全な場所まで戻ることができたのは、たまたま運が良かっただけではないだろうか。雪山で遭難した際に取るべき行動のセオリーは分からないが、地図と現実が合わないと理解した段階で寒さを凌げる場所を探して待機しておくという判断もあり得たのではないか。闇雲に歩いて安全な場所まで辿り着ける確率はそれ程高くないと思うが、吹きすさぶ雪の中でただ凍え死ぬのを待つわけにもいかない。このように失敗が許されない差し迫った状況ではどのように考え、どのように意思決定をすればよいのだろうか。

本書は人命を扱う失敗の許されない状況で、複雑な人体に向き合う医師の思考法について迫る一冊である。次々と異なる症状を訴える患者や教科書で見たことのないような検査結果を前にすれば様々な疑問が医者の頭をよぎる。

「患者は嘘をついているのか?」

「検査結果に誤りはないのか?」

徐々に症状が悪化していく患者を前に、それでも決断しなければならない彼らはどのように考えているのか。本書は医師がどのようなときに正しい判断を下し、どのようなときに誤った判断を下したのかについて考察することで、医者は現場でどう考えるべきか、患者は現場でどう考えるべきかへの示唆を与えてくれる。また、ここで示される思考法は医療現場に限定されるものではない。本書で示される「考え方」は、考えることが必要とされるどのような場面にも展開可能な内容といえるだろう。

本書に登場するパット・クロスリー医師が言うように、我々は医学的意思決定を客観的かつ理性的なものであり、感情の入り込む余地はないと考えてしまいがちだ。医学教育においても医師の感情が診断に与える影響がないがしろにされる傾向があるようだが、医師の感情はその意思決定の中で大きなウェイトを占めている。例えば、心理的障害があると判断された患者は、内科、外科などで不親切な扱いを受けるという多くの研究結果がある。これは「精神疾患」というレッテルを貼られた患者に対して医師が抱く否定的な感情がその思考を曇らせ、誤った行動を導いたということだろう。著者は医療ミスの中で技術的エラーによるものはわずかであり、その多くは認識の誤りに由来するものだと説明している。

予想どおりに不合理』など様々な行動経済学本でも紹介されているように、人間には一見合理的でない判断を行う思考の癖(罠と呼んでも良いかもしれない)が多数存在する。本書でも代表性エラーや属性エラーなどの思考のエラーが重大な誤診につながった事例が紹介されている。数あるエラーの中でも、エール大学ジェイ・キャッツ法学部教授の「不確実性の軽視」に関する考察が興味深い。

人間には不確実性を否定する、もしくは、確実性にすり替えようとする特徴があるとキャッツ教授は主張する。事故現場の目撃者は不完全な理解や記憶に対して無意識的にデータを捏造して穴埋めすることが多く、医師においても同様のことが起こりうるそうだ。つまり、確信のない状況で意思決定をしなければならない医師は、擬似的な確実性による安心感を求めてしまう傾向にあり、当初下した診断を肯定するデータには注目するものの、診断を否定するようなデータは軽視してしまうことが多くなるのだ。

本書には我々が陥りやすいエラーだけでなく、その対処法も示されている。例えば、不確実な状況で意思決定する際には、先ずは自分の決断が不確実なものであるとしっかり認識することが重要だ。自分の決断の不確実性をしっかりと意識していれば、診断と異なるデータが出た際に、下した決断の間違いを示すサインに敏感になるし、次の決断への移行も容易になる。間違った地図に盲目的に頼るのではなく、地図のない状況であることをしっかりと受け止め、それでも諦めずに自分の頭で考え続けることが求められているということだ。

ハーバード大医学部教授の著者はインターン、研修医等と回診していた際に、医学部生の中でも特に優秀であるはずの彼らが的を射た質問をしたり、注意深く相手の話を聞いたりすることが出来ていないこと、何より、患者の問題について深く考えていないことに危機感を覚え、本書の執筆を決意した。考える力の低下を端的に表す興味深い事例が紹介されている。

マンハッタンのメモリアル病院で働くナイマー医師は2年前に大細胞型リンパ腫の治療に成功したMSD(骨髄異形成症候群)患者に関するフェローとレジデントの報告を聞いて愕然とする。

「患者の白血球数は1900、血小板は7400、ヘモグロビン値は9.8です」とフェローが言った。「骨髄所見を含め、患者のパラメータをすべて計算しました。計算の合計は、IPSS(国際予後判定システム)のスコアにおける中間リスクⅡに相当します。このスコアから判断すると、輸血を行い、支持的処置以上のことはできないと思います」

ナイマー医師が驚いた理由は2つある。1つは、化学療法が原因でMSDを患っている患者にはIPSS判定システムは適応されないことを見落としていること、さらに重要なもう1つは、白血球数と血小板数が短期間で激減していることに危機感を覚えずIPSS判定に固執していたことである。

つまり、彼らはこの判定システムはどのような場合に適用されるのか、何のためにこの判定システムを適用しているのかを自分の頭で考えることを放棄していたのだ。学校でこのシステムを使うように習ったから、いつもこのシステムを使っているからという理由で機械的にこのシステムを使い、そしてその結果に従ったのだ。

驚くべきことに、医師たちの間で広く信じられている治療法の根拠が、「研修医時代にそう教わったから」というだけである場合も多いようだ。例えば、心臓に関するある治療方法は1920年代にまで起源を遡る必要があった。当然、現代の知見をもってすれば別の治療法が考えられるだろう。

我が身を振り返れば彼らばかりを責める訳にはいかない。「この会社では昔からこうやっているから」「偉い学者がそう言っていたから」などなど、自分の行動の中にも似たようなことがゴロゴロ出てきそうだ。(冒頭で紹介したエピソードも偉い教授が紹介したものだが、その起源を追及した研究があり、こちらも中々面白い。英文のみだがリンクはこちら

自分がどのようなエラーに陥り易いかを意識しておくことは重要であり、様々な意思決定のアルゴリズムも使い方を誤らなければ非常に役に立つ。本書にも様々な事例が紹介されているので参考にして欲しい。しかし、本書の主題は思考のティップスや直ぐに答えが導き出せるアルゴリズムを紹介することではないだろう。本書ではむしろ、全てを直ちに解決してくれる魔法の杖は存在せず、自分の頭でとことんまで思考し続けることの重要性が強調されている。

考え続けなければならないのは医師だけではない、患者も考える必要がある。著者は患者側からの積極的な質問を奨励している。突然具合が悪くなり、救急病院に運ばれたら「私の病気は、最悪の場合何ですか」という質問をするとよいようだ。そうすることで、救急医も最悪の事態を想定し易くなる。我々は質問することで医師の思考を助けることができるのだ。何より、どのような治療を望むのか、究極の場合に於いては、どのような最後を望むのかは医師の思考のみでは知りえないことである。患者本人にも明確には分からないことかもしれないが、医師とともに考えることで望むものに少しでも近づけるはずだ。

「患者の選択は本人の人生哲学と一貫したものでなければならない」

我々自身の人生哲学は、他人が考えたアルゴリズムからは導き出せない。

ナイマー医師の言葉は厳しく、そして優しい。

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