いわゆる多読というものを初めてから、それほど年月を重ねていないのだが、多読以前と以後で全く変わらないものがある。それは全体に占める、未読本の割合だ。年間50冊程度しか本を買っていなかった時も、年間500冊近く買うようになった今も、およそ30%が本の山に積んだまま、もしくはパラパラとめくっただけなのである。
未読が発生するメカニズムについても、自分なりに、かなり解明が出来ている。仮に10冊本を買ったとして、7冊程度読み終わったところで次の10冊を購入。新しいものに目移りして最後の3冊は未読のまま。追加の10冊においても同様に7冊程度読み終わったら、さらに次の10冊を購入。最後の3冊は未読のまま。年間の総数に増減があっても、このサイクルの回転数が変動しているにすぎない。
歯磨き粉も石鹸もシャンプーも完全に無くなって初めて、次のものをチンタラと買いにいくのに、なぜか本だけは絶対に読み切れない量を確保することに用意周到だ。そこに存在するのは、より早く、より多く、より複雑な情報に囲まれていたいという欲求と、処理しきれなかった未読本に対する罪悪感である。
このような大量の情報へ接する時に感じるジレンマこそが、本書の標題にもなっているオーバーフローという状態によって生み出されるものだ。それもこれも全ては、脳が情報処理できる能力に制約があるということに端を発する。その脳の制約の正体を、とことん解明しようというのが、本書の骨子だ。
われわれが今日もって生まれる脳は、クロマニヨン人が4万年前に生まれたときと、さして変わりがない。しかし、おそらくクロマニヨン人が一年間に出会った人の数は、われわれが一日に出会う人の数に匹敵するという。われわれが扱わねばならない情報量とその複雑性は増加の一途をたどっているのだ。
はたして石器時代のクロマニヨン人の脳が、現代の情報洪水に見舞われたらどうなるのか?そんな秀逸な問いかけが、本書をやすやすと最終頁まで誘ってくれる。つまり、進化論という系譜の中で、脳の役割にフォーカスを当てている点が本書のユニークなところなのだ。
そもそも、脳が情報を受け取る能力に制限があるのはなぜなのか?これは注意のメカニズムとも、深く関連する。 注意の力とは、情報の洪水が脳に届く直前のところではたらくものである。暗闇の中でスポットライトを照らすように、何かに向けて注意をコントロールするということが、すなわち情報を選択することになるのだ。仮にこの「コントロール可能な注意」というものが存在しなければ、無意識に入ってくる情報を遮断することができず、われわれは自分の意志で能動的に行動することすらできなくなってしまうという。
さらに、この注意の力は、記憶力の一種によって形成されているというから興味深い。何に注意すべきかを頭に記憶しながら、同時並行で行動しなければ目的が達成されないためである。この機能を司るのが、ワーキングメモリという能力だ。
ワーキングメモリは、普通数秒といわれる限られた時間の中で情報を保持する能力を指している。この能力にとりわけ注目が集まるのは、電話番号や位置を保持するだけでなく、問題解決の能力においても重要な役割を果たしているからだ。さらに、ワーキングメモリは言語理解、学習や推論などの複雑な認知的課題に必要とされる情報の一時的な操作と保持も行っているという。
前半はこのワーキングメモリのメカニズムが詳細に解説されているのだが、なんといっても気になるのは、このワーキングメモリが拡張可能なのかということだ。この点について、著者は数々の先行研究や自身の実験から、「訓練を通して改善されうる」という事実を明らかにしている。ワーキングメモリは静的ではなく、その容量の制約は拡張可能であるということが示されているのだ。
そして、具体的なワーキングメモリの訓練方法の一つとして「禅」が紹介されているのも面白い。凡夫禅(僧侶でない一般人の禅)によって、心をコントロールしたり、集中させたりすることが、ワーキングメモリの拡張につながるというのだ。実際に、禅の修行僧の脳波を測定したところ、通常より高い脳の活動が見られたという。
現代の情報化社会の特徴は、おおざっぱに「増大する複雑さ」と「高度な情報の流れ」といわれるが、これはワーキングメモリの負荷を増加させる方向への移動である。このような、われわれの能力の限界を広げる状況こそが、脳を最も訓練し、人類の能力水準をあげることにつながっているのだ。
一方で、本書では情報洪水によるストレスに対しても警鐘を鳴らしている。ストレスのレベルは文脈的であり、置かれている状況の解釈とも関わりを持つそうだ。キーとなる概念は、コントロールしているという感覚を持てるかどうか。仮に未読本の山があろうとも、自身のコントロール下にあると思えばストレスにはならないということか。やるぞ、計画的未読!能動的積ん読!積極的置い読!
HONZのせいで本を買いすぎちゃったよ、そんなことをボヤかれている方にとっては、格好の免罪符になる一冊でもあるだろう。例え未読であっても、情報圧力をかけることこそが人類の進化なのだ。ん、これは言いすぎか?どうやらワーキングメモリが不調の模様。 あしからず。
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タイラー・コーエンといえば最近では『大停滞』が話題だが、こちらの本も個性が際立っており面白かった。「人は情報食になった」と形容されるくらい大量の情報が氾濫する昨今、情報の収集・選別に関して、自閉症者の認知面での強みから、きわめて多くのことが学べるというのがその骨子。また、著者自身も自分の自閉症的な認知形態を認めており、冒頭で読者からアスペルガ―症候群か、高機能自閉症に当てはまるのではないかという指摘を受けたエピソードを披露している。
『オーバーフローする脳』では、脳の能動的な側面を中心に語られているが、もう一つの脳ともいわれる無意識をテーマにしているのが、こちら『隠れた脳』である。私たちが気づかないところで働いている無意識の力は、想像以上に大きい。性的暴行を受けた女性の記憶にかかる”認知のバイアス”、人種間におこる”偏見のバイアス”、テロリストを自爆へと誘う”つながりのバイアス”。取り上げられている事例の数々がどれも大変興味深く、グイグイいける一冊。
似たようなテーマを論じて昨年話題になったのが、ニコラス・G・カーの『ネットバカ』。『オーバーフローする脳』がどこまでもポジティブであるのに対し、『ネットバカ』はやや悲観的な論調であり、ネットでの情報収集が我々の脳にもたらす変化について、さまざまな視点から警鐘を鳴らしている。しかし、その流れを不可避なものと捉え、人間にとっての知性は何かということを深いレベルから論考している良書。