読むのにとても時間がかかったのは、著者が巨大な問いと格闘しているからかもしれない。戦後最悪ともされる凶悪事件を通して、私たちの社会の奥底で起きている変化をとらえた力作だ。
本書は、神奈川県相模原市の障害者施設、津久井やまゆり園で、入所者と職員45名が殺傷された事件の深層に迫ったノンフィクションである。事件そのものを取材した本は他にもあるが、本書が類書と一線を画すのは、サブタイトルにある「戦争と福祉と優生思想」という視点だ。一見バラバラな3つの言葉は実は深いところでつながっている。それだけではない。著者の人生もまたこの事件と無関係ではなかった。
ノンフィクションのディープな読者は著者の名前に見覚えがあるかもしれない。著者には浅草で起きた短大生殺人事件に関する著作(『自閉症裁判 レッサーパンダ男の罪と罰』)がある。2001年、浅草で19歳の女性が見ず知らずの男に刺し殺されたこの事件は、男がレッサーパンダのぬいぐるみのようなものを被った異様な風体だったことから報道が過熱した。ところが逮捕された男には知的障害があり、裁判では責任能力をめぐり検察と弁護側が対立した。(無期懲役が確定)
著者の人生は、節目節目になぜか「障害」の問題が目の前に現れるという。浅草の事件も、教員として20年以上勤めた養護学校(現在は特別支援学校)を辞めフリージャーナリストに転じた年で、取材するうちに「障害と犯罪」の問題に深入りしていった。その後もこのテーマと関わり続け、そろそろ手を引いてもいいかと考えていた矢先に起きたのが津久井やまゆり園事件だった。
事件は2016年7月26日未明に起きた。午前1時43分、元職員の植松聖が津久井やまゆり園に侵入。1時間ほどの間に入所者19名の命を奪い、夜勤職員を含む26名に重軽傷を負わせた。
ニュース報道ではしばしば死者の数が一人歩きしてしまう。この事件でも「奪われた19の命」といった言葉が盛んに喧伝された。だが、被害者の中には長時間に及ぶ手術を経てようやく一命をとりとめた人もいた。刺された箇所があと数ミリずれていたら致命傷になった被害者が大勢いる。つまり植松は、職員を除く43名を本気で殺すつもりで包丁を突き刺したのだ。
著者は2つの方向からこの凶悪事件にアプローチしている。
ひとつは、「植松聖」という人間を掘り下げ、歴史的な文脈に位置付けること。社会を震撼させた凶悪事件の系譜の中で、植松が決して突然変異によって現れた例外的な存在でないことを明らかにすること。
もうひとつは、著者自身の体験をもとに、広く福祉の問題系の中でこの事件をとらえ直すこと。事件を通して戦後の歴史の暗部に光を当て、私たちが気づいていない社会の変化を明らかにすること。
犯罪は社会を写す鏡だと言われるが、こうしたアプローチの先に、戦後社会の負の部分がこの事件に凝縮されていることが見えてくるはずだ。
だが「植松聖」が何者かを知ることは容易ではなかった。著者は横浜地裁に通いつめ裁判を傍聴するが、残念ながら法廷では肝心の「なぜ事件を起こしたのか」という真相は明らかにならなかった。
植松が「意思疎通のできない障害者は殺してもかまわない」という歪んだ考えを持っていたことは広く知られている。施設で働き始めた当初の植松は、入所者と積極的に関わろうとしていたが、思い通りにならないことに次第にイライラを募らせていった。
著者は障害を持つ人々と長く関わってきた経験をもとに、どんなに重度の障害がある人でも、自分の好き嫌いがあるのだと指摘する。この援助者は嫌いだと思えば、かたくなに拒否する。丁寧に気を配りながら接してくれる職員には心を開くし、「重い知的障害だから」などとみくびる職員にはそっぽを向く。おそらく入所者たちは、彼らなりのやり方で植松に反抗していたのだ。植松は入所者を「何もできない」と見下していたが、「何もできない」のは実は植松自身のほうだったのである。
承認欲求が異常なほど強い植松にとって、これは受け入れ難い事実だったに違いない。次第に「障害者は社会から排除すべき」という思考にとらわれていく。そこに拍車をかけたのが陰謀論だった。植松は友人からも孤立していく。皮肉なことに孤立すればするほど「自分は選ばれた人間だ」という思い込みが強化されていった。
粘り強く植松を掘り下げるうちに、やがて無差別殺傷事件から現代のテロ事件へとつながる一本の線が浮かび上がる。(私たちはつい先日も爆弾テロを目撃したばかりだ)世間を震撼させた事件を起こした犯人と植松との共通点は何か。彼らを凶行へと駆り立てたものは何か。ここから見えてくるのは、どんな凶悪犯罪も社会との関わりの中から生まれるということだ。では植松聖を生み出したのは、どんな社会なのか。
実は裁判で植松が「語らなかったこと」がある。それは家族のことだ。植松がどのように育てられ、両親との間にどんな感情的な交流があったのかは明らかになっていない。著者は勾留中の植松からもらった手紙にあった「疲れ切った母親の表情」という表現に注目する。「重度障害者の最大の犠牲者は母親」という文脈で植松が使った言葉だった。なぜ母親なのか。裁判ではこの件に話が及ぶと、本人と弁護団がたちどころに拒絶した。それは傍聴していて異様な印象を受けるほどだったという。
「障害者と家族」という問題では、著者自身も当事者だった。
秋田出身の著者にはかつて重い障害を持つ弟がいた。ある日、悲劇が起きた。弟の世話をしていた母親が脳梗塞で急逝したのだ。介護の手を失い、家族は「難破寸前の船」になった。だが地元紙がこの窮状を記事にしたことで、10歳の弟は東京の施設に入所できることになった。ところが、夏休みに施設を訪ねた著者はショックを受ける。わずか半年ほどの間に弟は痩せこけ、まるで別人のようになっていた。それからほどなくして弟は亡くなった。著者には強い罪悪感が残った。当時の体験の重みは、その後の50年の人生のそれに優に匹敵するほどだという。
障害者のいる家庭が孤立しがちなのは現代も変わらない。津久井やまゆり園事件の被害者のほとんどが匿名だったことにもそれは現れている。実名を明らかにすると、遺族が差別される可能性があるというのがその理由だった。
障害のある人が普通に暮らせる社会はどうすれば実現できるのか。こうした問いを前にすると、私たちは「福祉が充実した社会」を思い浮かべがちだ。福祉には「包摂」や「共生」のイメージがある。だが本書は、そうしたイメージとは対極にある「戦争」と福祉との意外な関係を明らかにする。
日中戦争が全面化していく総力戦体制下の日本は、一方で福祉国家でもあった。厚生省が設立されたのは1938年である。ファシズム国家が成立する過程で、国民の健康を生殖段階から国家が管理するようになり、障害者も貴重な「人的資源」として戦争に動員された。福祉と国家権力は表裏一体の関係にあったのだ。
福祉の世界では、長らく障害者との共生が模索されてきた。障害がある人を施設に閉じ込めておくのではなく、地域社会にインクルーシブすることの必要性が議論されてきた。「共生社会」や「地域移行」はもちろん目指すべき社会のあり方だろう。だがそれらの美しいスローガンは、一方で国によって社会保障費削減のアリバイとして使われ、障害者や高齢者のケアを、家庭の自助や何のインフラもない地域の共助へと押し付ける口実となっている。
著者はこの先の未来に、重い障害のある人からじわじわと医療が奪われ、さらに追い詰められた時には、「死ぬ/死なせる」というところに「自己決定権」の選択肢が与えられる社会がやって来るのではないかと考えている。「死なせる医療」と「殺す社会」が到来しつつあるというのだ。
ここで恐ろしいことに気づく。著者のビジョンが正しいのなら、植松がやったことと、国がやろうとしていることに、いったいどれだけの違いがあるのだろうか。
植松は事件前、衆議院議長宛に手紙を送っていた。そこにはこう書かれていた。
「私は障害者総勢470名を抹殺することができます」
イカれた犯罪者の言葉だと誰もが思うだろう。だがそれならば、国はどうなのか。もしかしたら私たちの社会もまた、正気を失っているのかもしれない。