世の中を動かした調査報道は、社員寮での会話から始まった。
東京・港区三田に、共同通信東京本社勤務の若手らが住む「伊皿子寮」がある。
「私たち、東京に来てから何もしてないよ。このままだとやばいよね」
2020年8月のある日、寮のロビーでデリバリーの夕食をつまみながら、ふたりの女性記者が話し合っていた。鎌田理沙記者は19年春に入社し、一年間松江支局で勤務した後、20年に本社の運動部に配属された。品川絵里記者は18年入社で、大分支局で勤務後、同じく20年春に運動部に配属されていた。だがこの時、ふたりが取材できるスポーツの現場はほぼ消滅していた。
新型コロナウイルスはこの年の始めから日本でも猛威を振るい始め、国内のスポーツイベントはことごとく中止となった。夏に開催予定だった東京五輪・パラリンピックも史上初の一年の延期が決まっていた。
試合を取材する機会はなく、記事も書けない。そのかたわら同年代の記者は事件や事故の記事を精力的に書いていた。焦りは募るばかり。このままではまずい。どうにか打開策を見つけたい。同じ不安を抱いていたふたりは、自分たちで書ける記事のアイデアを出し合っていたのだ。
そんな折、鎌田記者が学生時代の話を思い出した。大学ではスポーツ新聞部に所属し、体育会の試合を取材して記事を書いていた。ある競技を取材した際、カメラ撮影を担当した同期の男子学生が盗撮の疑いをかけられたことがあった。係員にカメラの中身を確認された男子学生はひどく傷つき落ち込んでいた。
ふたりとも偶然ジェンダーの分野に関心があった。スポーツの盗撮も広くジェンダー問題と言えるのでは?品川記者に提案すると賛同の声があがった。
「それいいじゃん!ありだと思う」
アスリートの性的画像問題を巡る共同通信運動部の調査報道は、こうして始まった。一連の調査報道は大きなうねりを生む。JOCや国を動かしアスリートたちが声をあげるきっかけをつくった。本書は調査報道の舞台裏から、盗撮罪をめぐる法整備の動き、盗撮加害者や盗撮ビジネスの実態まで、スポーツと盗撮の問題を広くカバーした一冊だ。
取材を始めると、現場では多くのアスリートがこの問題に苦しんでいることがわかった。カメラで透けやすい白いユニホームを狙って写真を撮る。あるいは陸上の跳躍種目でジャンプしている体勢や、短距離のスタートでお尻を上げている姿勢を狙って写真を撮る。こうして隠し撮りされた写真や動画は、SNSなどを使って拡散される。卑猥なコメントをつけてばら撒かれた画像は「デジタル・タトゥー」となって永久に残る。アスリートたちは深く傷ついていた。
だが一方で、取材班はこの問題の伝え方の難しさにも直面していた。
そもそも盗撮とは何か。盗撮とは一般的に、撮影の対象者から了解を得ることなしに隠れて撮影を行う行為である。通常は、衣服の下に隠れている下着や身体を撮影することが、迷惑防止条例違反で処罰の対象となる。これに対し本書がフォーカスするのは、「ユニホームを着たアスリートの胸や下半身をアップにするなど、性的な意図で画像や動画を撮影されたケース」だ。
衣服に隠れた部分を撮影する行為と、ユニホームを着た外見(の一部)を撮影する行為。この違いに問題の難しさがあった。厳密に言えば、アスリートが受けているのは盗撮被害ではなく、迷惑な撮影ハラスメントに過ぎないということになってしまう。性的な意図を持った隠し撮りが卑劣な行為であることは言うまでもない。ただ、この問題を報道するには、その「行為の卑劣さ」をうまく伝えるキーワードが必要だった。
取材を始めた時点で、すでに陸上の女子選手2名がこの問題について声をあげようとしていた。彼女たちの勇気ある行動を後押しするためにも、適切な言葉が欲しかった。「迷惑撮影」だと実態がぼんやりしすぎるし、「撮影ハラスメント」は漠然としている上に文字数が多い。取材班が悩みながらようやく見出したのが「性的画像」という言葉だった。
「アスリートの性的画像問題」。これなら伝わる。ようやく記事が固まり、20年10月12日、第一報が世に放たれた。
反響は大きかった。詳しくは本書をお読みいただきたいが、驚いたのは、記事の影響の拡がりの速さである。アスリートたちが次々に声をあげ、JOCも素早く対応した。瞬く間に国とスポーツ界で共同声明が出され、被害を通報できる窓口も設けられた。
もうひとつ画期的だったのは、警察を動かしたことだ。盗撮行為は刑法で規定されておらず、全国一律に盗撮を規制する法律はない。都道府県ごとに迷惑防止条例で取り締まっているのが現状で、この手の問題に警察の腰は重かった。ところが警視庁側から協力の申し出があり、実際に摘発に動いた。アスリートの性的画像で初の逮捕者が出たインパクトは大きかった。
関係機関が異例ともいえるスピードで動いたのは、東京五輪・パラリンピックを控えていたこともあっただろう。日本は「盗撮大国」とも言われる。世界に恥ずかしい姿は見せられないという心理が働いたことは否めない。
その一方で、アスリートの性的画像問題が、#MeToo運動に象徴される社会の意識の変化とつながっていたことも事実である。取材班は、アスリートたちが「なにかおかしい」と悩んでいた事柄に対し、問題提起のかたちで明確な輪郭を与えた。端的に言えば、時代の流れを見事につかんだのである。
実際、性的画像に苦しむアスリートの声を伝えたいという思いから始まった取材は、社会の様々な問題とリンクしていった。例えばこの問題で苦しんでいるのはアスリートだけではなかった。チアリーダーや航空会社のCAなども隠し撮りの被害に遭っていた。本書で初めて知ったが、学習塾も被害が多いという。
警察庁によれば、盗撮事犯の検挙数は、2010年の1741件から2021年は5019件と3倍近く増え、過去最多を更新している。そのうち約8割にあたる3950件がスマートフォンによるものだ。
本書には加害者のインタビューもおさめられているが、あまりの罪の意識の低さに驚く。痴漢のように触るわけではないため、「ばれなければやっていないのと一緒」というのが彼らの理屈である。盗撮は卑劣だ。なぜ卑劣なのかといえば、他者へのリスペクトを欠いているからだ。競技に打ち込む選手の努力や熱意を無視して、ゲスな欲望を一方的に投影した画像や動画をバラ撒く。これが卑劣な行為でなくて何であろう。現在、「盗撮罪」の創設をめぐり議論が行われているが、一定の抑止効果が期待できる厳罰化は必要だろう。
一連の調査報道には、多くのコメントが寄せられたという。「そのような格好をするのが悪い」「そういう要素がないと、女性のスポーツなんて見ない」。こうしたコメントについて、「女性選手を一つ下の存在に見ているとしか思えなかった」と書く若手記者の感覚は真っ当だ。
調査報道こそが新聞が生き残るための有効な手段であることを本書はあらためて教えてくれたが、その一方で、ことジェンダーがらみの事案となると、男性記者たちの感度が極端に鈍いことも本書は指摘している。それは新聞社が男社会だからに他ならない。この優れた調査報道は男だらけの新聞社に対するブーメランでもある。
汚職が次々に明るみに出て、すっかりケチのついた東京五輪・パラリンピックだが、本書を読んでわずかながら誇れる要素もあることを知った。
調査報道をきっかけに、アスリートを盗撮から守ろうという気運が生まれ、五輪会場では実際に禁止行為として明記された。競技でもドイツの体操女子チームが足首まで覆う「ユニタード」を着用し競技に臨むなど新しい試みがなされた。
「レガシー」とは本来、五輪を隠れ蓑にした金儲けの方便ではなく、今後の大会にも受け継がれるような実績などに対して使われるべき言葉である。それでいえば、東京五輪・パラリンピックは、アスリートの性的画像問題に取り組んだ初めての大会だった。
そのきっかけとなったのが若い女性記者のアイデアだったと思うと、痛快でならない。