本書には信じがたい話がいくつも出てくる。以下にその一例をあげよう。
子供が母親にこんなことを言われた。
「ゲームばかりしているとお父さんに怒られるよ。まぁ、今日はいいか。勉強もしたしね」
どこの家庭でもありそうな場面だ。母親は決して叱っているわけではなく、勉強を頑張ったご褒美に今日は特別にゲームをしてもいいよ、と言っている。むしろ子供への優しさを感じる言葉だ。
ところがその直後、子供は激怒して母親に暴力を振るった。なぜか。原因は、子供が「勉強もしたしね」の語尾を「死ね」と聞き間違えたことだったという。
「え?」と混乱した人がほとんどかもしれない。なぜ「勉強もしたしね」を「死ね」と聞き間違えるのか。間違えようがないではないか。誰もがそう思うはずだ。
実は国語力のない子供というのは、言葉を文脈の中で理解できず、一語一語区切って読んだり、理解したりしているという。つまりこの子には、「勉強したしね」が「べんきょう / した / しね」と聞こえていた。だから「勉強、した?死ね」と誤解してしまったのだ。
愕然とする話である。この社会は基本的に「言葉で伝える」ことをベースに成り立っている。その前提には「話せばわかる」という考えがある。だが、こちらが普通に話していることがいちいち相手に伝わらなかったとしたら?それどころか意味を取り違え、一方的に腹を立てて暴力的手段に出てこられたりしたら……?この社会は根底から崩れてしまう。
子供をテーマにしたノンフィクションも手掛ける著者は、学校をはじめとする教育機関から講演などに招かれる機会も多い。訪れた先で授業に参加させてもらったり、教員や保護者と語り合ったりする中で、しばしば目にするのが、子供たちの国語力の低下を実感させられる場面だという。
都内の公立小学校で4年生の国語の授業に見学した時のこと。その日の教材は、『ごんぎつね』だった。
悪ふざけが好きな狐のごんは、兵十という男が獲った魚を川に逃した。ある日、ごんは兵十の家で葬式が行われているのを見かける。兵十が川で魚を獲っていたのは、実は病気の母親に食べさせるためだったのだ(ごんはいたく反省し、物語はその後、悲しい結末を迎えるのだが、ここまでにしておく)。
授業で取り上げていたのは、ごんが兵十の母親の葬儀に出くわす場面だった。そこでは、村人が集まり葬儀の準備をしているシーンが描かれている。
〈よそゆきの着物を着て、腰に手ぬぐいを下げたりした女たちが、表のかまどで火をたいています。大きななべの中では、何かぐずぐずにえていました〉
ごんの視点なので、作者は「何か」と表現しているが、常識的に考えれば、村の女性たちが参列者にふるまう食事を煮炊きしている場面だと想像できるはずだ。
ところが「鍋で何を煮ているのか」という問いに対する子供たちの答えに著者は仰天した。なんとクラスの半数以上が「鍋で兵十の母親の死体を消毒している」「死体を煮て溶かしている」などと答えたのだ。
こうしたショッキングなエピソードをきっかけに、著者は何が子供たちの国語力を殺したのか突き止めようと取材を始める。
ところで「国語力」とは何だろうか。文部科学省の定義によれば、国語力は「考える力」「感じる力」「想像する力」「表す力」の4つを中核とする能力とされる。ひらたくいえば、国語力とは生きていく上で、ないと困る能力だ。著者は国語力を、社会という荒波に向けて漕ぎだすのに必要な「心の船」だとする。語彙という燃料によって、情緒力、想像力、論理的思考力をフル回転させ、適切な方向にコントロールするからこそ大海を渡ることができる、と述べる。
その国語力が崩壊の危機に瀕しているという。
著者がまず俎上に載せるのは、家庭、学校、ネットだ。貧困や虐待といった家庭環境の問題、言葉遣いがエスカレートしがちなSNSの問題、迷走する教育行政の問題……。何か特定の原因に向けて議論が収斂していくというよりも、いくつもの要因が指摘されていく。読んでいると、国語力を殺した「犯人」はひとつに絞り込めないことがわかる。つまりあらゆる場面で一挙に問題が表面化しているということだ。
そこから浮き彫りになるのは、言葉を扱う力が貧弱であるがゆえに苦しむ子供たちの姿である。言葉をうまく使えない子供は、考えることを放棄してしまう。それは生きることの放棄へとつながる。著者が次に目を向けるのは、不登校、ゲーム依存、少年院の現場だ。そこでは、どん底からの国語力再生の取り組みが行われている。
子供が言語を習得する際に重要なもののひとつが「遊び」である。遊びの中で子供は身の回りの世界を探索し、五感をフルに働かせ、少しずつ言葉を身につけていく。そこから物事の因果関係を考えたり、抽象的な概念をイメージできるようになったりして、徐々に心の中に「辞書」を形成していく。これを心理学では「心的辞書(メンタル・レキシコン)」と呼ぶ。
本書が取り上げるのは、この心の辞書をうまくつくれなかった子供たちだ。そうした子供たちに言葉を取り戻させるための取り組みが紹介される。
例えば、少年院を出た子供たちの更生支援を行うある施設では、「言葉のバブル」という授業が行われていた。プリントには大小のマル印が描かれ、その脇には、喜怒哀楽を示すさまざまな言葉が描かれている。「喜」であれば、「歓喜する」「はしゃぐ」「浮かれる」「天にも昇る気持ち」「感涙にむせぶ」といった具合だ。これを自分なりのイメージで、喜びの度合いが大きいと思う言葉は大きなマル印に、逆に小さい言葉は小さなマル印に書き込んでいくのである。
感情を示す言葉にもいろいろあること、またその度合いによって言葉を使い分けることを学ぶのだが、面白いのは、「哀」や「怒」を表す言葉は、感情の大小を計るのが難しいということだ。ここで初めて子供たちは、悲しみや怒りを表すのになんでもかんでも「死にたい」や「殺す」といった言葉で済ませてきたことを知る。そして言葉を雑に扱うことの危険性に気づくのである。
本書では国語力の育成で実績をあげているトップクラスの学校の事例も紹介されている。
ある小学校では、五感を刺激する体験型学習を重視していた。国語力を身につけるには、子供たちにいろいろな体験をさせることが必要だ。家事の手伝いをすることも、外で遊ぶことも、あらゆる体験が豊かな言葉を獲得する助けになる。
考えてみると、『ごんぎつね』の「誤読」も、子供たちの体験の乏しさに起因するのかもしれない(養老孟司氏言うところの「脳化社会」の弊害である)。現代の葬式は葬儀会社任せがほとんどで、昔のように一族総出で準備をすることも
ない。葬儀の描写を子供たちがイメージできないのも無理もないと思う。
『アンネの日記』を一学期かけてじっくりと読み解く授業を行う中学校や、ひとつの問いをみんなで掘り下げて行く「哲学対話」を実践している中学校なども紹介される。一見、実利とは結びつきにくい文学や哲学を学ぶことが国語力の向上に寄与している事実は示唆的だ。教育行政にあれこれ注文をつける経済界のお歴々は本書をよく読んでほしい。
本書に国語力再生のための決定的な妙手が書かれているわけではないし、特効薬の処方箋もない。だが、どん底からの再生の試みにしろ、トップ校で行われている国語教育にしろ、それぞれの取り組みにはヒントが詰まっている。
本書の終章には、ヘレン・ケラーのエピソードが置かれている。なにも見えず、音も聞こえず、暗闇の中でただイライラしながら生きていたヘレンは、「言葉」を獲得することで、社会や他者と関係を結ぶことができた。ヘレンは自分と世界とをつなげた言葉のことを、「羽の生えたことば」と表現している。
すべての子供たちに「羽の生えたことば」を身につける機会を与えること。これ以上に大切なことがあるだろうか。なぜなら、それこそが生きていく力を根底で支えるものだからだ。国語力の再生こそ政治の最優先課題かもしれない。