2021年8月半ば、日本では新型コロナウイルスの感染者が5000人を超えた。その後ピークアウトして減少を続け、2021年11月15日現在、全国で感染者が100人余りという日が続いている。重症者も少なくなり、ひとまず第5波のパンデミックは落ち着きを見せている。この感染者が急減している原因は特定されてないが、ワクチン接種の普及が大きな要因であることは間違いないだろう。
昨年初め新型コロナが流行した初期、ワクチン開発には数年かかると言われていた。しかしそれが1年足らずで開発され、2020年年末に緊急承認されると聞いたとき、いったい何が起こったのだろうといぶかった。mRNA(メッセンジャーRNA)によってコロナウイルスの遺伝情報を細胞に取り込ませる、と聞いてもピンとこなかったが、多くの専門家による解説でかなりの部分は理解できたと思う。
このmRNAを使ったワクチン開発の基礎を築いたのはハンガリー人でアメリカ移民の女性、カタリン・カリコ博士である。カリコ氏は40年もの間この研究を続けてきた。この10年ほどはがんの治療薬などmRNAを使った研究が本格化しており、新型コロナワクチン開発はその線上にあるもので、けっして突然できたわけではなかったのだ。
著者の増田ユリヤは高校の教師でありテレビのコメンテイター。番組内でmRNAワクチンの解説を行ったことでカリコ氏に興味を持ち、インタビューを申し込んだ。
1955年ハンガリーの地方都市生まれのカリコ氏はバーテンダーであり精肉店店主の父と会計の仕事をしている母との間に生まれた。とても貧しく水は井戸まで汲みに行くという暮らしだった。しかし小学生時代から科学的才能は認められており、生涯の師は彼女をこう例える。
カタリン・カリコは、カール・フォン・リンネのようだった
小学生の時から高校の生物クラブに招待され、すでに人口爆発やグローバリゼーションが抱えていく問題について論文を書いていたというから驚く。この時期に出逢った本、ハンス・セリエ『生命とストレス』が今でも彼女の人生を支える一冊だという。
高校時代、ハンス・セリエ氏とは文通も行い、学者と学生であっても対等な関係を築いていた。一流の学者との対話が彼女の研究者としての意識を育んできたのだろう。ハンガリーのトップレベル、セゲド大学に進学したあともその才能は順調に伸び、セゲド生物学研究所で最先端の研究を行うようになっていく。RNAの研究はこの時に始まった。
だが社会主義体制下で景気が低迷したハンガリーでは研究資金を調達することが難しい。1985年、30歳になり結婚して娘を持ったカリコ氏は、アメリカのテンプル大学のオファーに応じ、行くことを決意する。しかし持ち出しできる外貨は100ドルまで。彼女が持ち出した方法はスパイ映画さながらの方法だった。
しかし年俸は最低、エンジニアの夫の仕事はない。上司からのパワハラなどで他の大学へ移っても彼女の肩書は非正規雇用の研究助教。不安定な立場にありながらmRNAを細胞に挿入して新しいタンパク質を生成させようとする研究は続いていた。他の人たちはバカにしたが、ある日成功する。
神になった気分だったとカリコ氏は言うがやっていることがあまりに斬新すぎてお金を貰えず、研究費不足で研究チームは解散。助成金、助成金とうわごとのように言うカリコ氏は、いまの日本の研究者のようだ。
ここで救世主であるドリュー・ワイズマンが現れる。ベンチャー企業のビオンテックのシニア・バイス・プレジデントとなったカリコ氏は2020年秋にはワクチン開発の目途が立った。そこからの怒涛の展開は皆さんが知るとおりである。
後半には、そもそもワクチンとは何で、mRNAとは何をするものか、これによるワクチンがどのように作用するかが、かなりわかりやすく説明されている。このままコロナが落ち着けば、近い将来、カタリン・カリコ博士はノーベル賞を受賞するだろうと囁かれている。随所にのぞくおちゃめなカリコ氏の素顔がとてもいい。コロナ禍で行われるようになったリモートでのインタビューの利点が遺憾なく発揮された一冊である。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
カリコ氏の人生を支えた一冊。