なんやかんやで25年間も大学教授をやってきました。定年までカウントダウンになって、あらためて、大学って何をするところなのかと考えることがよくあります。ひとことで言うと、学問をする場、でしょうか。あるいは、昨今の大学をとりまく状況を考えると、「そうあるべき場」と言ったほうが正しいかもしれません。
大学の二大ミッションは教育と研究です。ならば、学問=研究+教育かというと、少し違うような気がします。研究はさておき、教育の定義はいくつもあります。私がいちばん好きなのは、「教育とは、学校で学んだことをすべて忘れたあとに残るものをいう」というアルバート・アインシュタインの名言です。
大学における教育とは、学問をつぎの世代に受け継ぐのを目的とすべきであることは間違いありません。しかし、知識はどんどん新しくなっていきますし、いまや、細かいことは覚えなくてもすぐに検索できます。なので、学生にとっての大学とは、学び方、そして、学問する姿勢を身につけるための場であるべきと、ずっと考えていました。
さて、つぎは学問です。研究というのはどんどん細かく掘り下げていく具体的なものであるのに対して、学問というと、そういった研究を統合した上で思索を振りかけたもの。研究よりはちょっと漠然とした哲学的なものではないかという気がします。
大阪大学には、その「学問」という言葉を使った「学問への扉」という新入生向けの必修科目があります。「学問への扉」と「研究への扉」とではずいぶんとイメージが違うのではないでしょうか。前者のほうが、扉の向こう側がはるかに大きく広がっているという印象です。そうでもないですか? その「学問への扉」、HPにはこのように紹介されています。
学部・学科を問わず、大阪大学で「学び」をスタートさせる学生は、高校までの受動的で知識蓄積型の学びから、主体的で創造的な学びへと転換する必要があります。そこで、「課題・文献など一つの内容をもとにアカデミック・スキルズの指導を含む、大学における学びの基礎科目」として「学問への扉(愛称「マチカネゼミ」)」を設定しています。
「学問の扉」ではなくて「学問への扉」としてあるところに、学問を始めるための助走というような心意気が込められていて、ええ感じの工夫が見てとれます。それから、マチカネゼミという名前は、大阪大学の豊中キャンパスが待兼山(まちかねやま)にあることからつけられています。新入生みんながものすごく待ちかねているから、ではないのがちょっと残念ですが、まぁまけといてあげてください。
この科目は、学生が興味ある内容を学ぶ中で、少人数クラスで異分野の学生とも接し、異なったものの見方や課題解決の道筋を意識する場であり、「教養教育」の出発点となります。また、授業の中でのレポート添削やプレゼンテーション指導などによって、発信力を高めることも目指します。
と続いています。なかなか立派な目的です。しかし、少人数クラスで必修となると、大学全体での教員の負担は小さくありません。いざ担当させられるとなるとじゃまくさそうです。実際、教授会では、忙しいのにどうしてそんなことをしなければならないのかという意見が出たりして不評でした。2年に1回、15コマの受け持ちがどの程度の負担であると感じるかは個人差があるでしょうけれど、ともかくそういった状況だったのです。
じつは、最初に聞いたとき、私もそう思いました。15回、毎週、医学部のある吹田キャンパスからモノレールで20分ほどかかる豊中キャンパスへ行かねばなりません。それも、金曜日の夕方16時半から90分間の受け持ちです。週末の夜の活動に差し支えが出かねません。
でも、すぐに考えを改めました。どうせやるなら楽しんでやらないと損ではないかと。イヤな仕事でもおもしろいと思いながらやる。これは私のモットーです。うれしくなくともうれしそうにしていたらうれしくなってくる。これは心理学の教えるところです。楽しいと思っていたら楽しくできる。これはずいぶん前から実践していて、経験的に、とことんイヤな仕事はどうしようもないけれど、それ以外ではうまくいくことがわかっています。
医学部で教えているのですが、そこでの教育は少し特殊です。こういう言い方をするとイヤがる人もいますが、基本的には、卒後初期研修の2年間を含めた8年制の高度職能専門学校みたいなものです。知識を詰め込むことが目的なので、残念ながらアインシュタイン言うところの「教育」とはまったく違います。そんなですから、毎年教えながら、これって大学が目指すべき教育と違うよなぁという違和感を持ち続けていました。しかし、「学問への扉」は、アインシュタインが定義する「教育」を実践できる場ではないのか。そう思うと、俄然やる気が湧いてきました。
まずはテーマをどうするか、です。何でもいいのですが、さすがに知らないことを教えるわけにはいきません。なので、「健康と医学について考えよう」にしました。伝わるかどうかは別として、「考える」ではなくて「考えよう」としたのは、学生たちに能動的な姿勢を見せてほしいという気持ちを込めたつもりです。
ようこそ、「学問への扉」仲野ゼミへ! あなたも受講するつもりで、いっしょに楽しんでください。
以下、わたしの『知的なワザを磨いた名著4冊』です。