本書『怒りの時代││世界を覆う憤怒の近現代史』は、インドの評論家で作家のパンカジ・ミシュラのAge of Anger: A History of the Present を全訳したものである。原書は2017年1月、イギリスのアレン・レーンから刊行された。刊行直後からイギリスやアメリカを中心に話題となり、「ニューヨーク・タイムズ」や「ガーディアン」などの有力紙に書評が掲載され、大きな反響を呼んだ。『怒りの時代』は著者のミシュラの7冊目の著作に当たり、邦訳書としては20世紀初頭のアジアで 活躍した三人の思想家、イスラム活動家のジャマールッディーン・アフガーニー、中国の梁啓超 、英領インドの詩人ラビンドラナート・タゴールの業績と思想を解き明かした『アジア再興ーー帝国主義 に挑んだ志士たち』(園部哲訳、白水社、2014年)に次いで2冊目となる。
21世紀、グローバル化された世界で、人びとは新たに結びつけられ、たがいに対する依存をますます深めてきた。しかしその一方で、ナショナリズムの気運が世界の多くの国で高まり、過激な政治行動と分断が進行している。1989年のベルリンの壁崩壊で、世界を二分してきた冷戦に終止符が打たれ、自由主義と民主主義を掲げる西側世界は、第二次世界大戦後に始まったこの戦争に勝利した。だが、著者ミシュラは、冷戦の終結とともに新たな戦争の火種がまかれたと説く。それは市民レベルで繰り広げられる世界的な戦争の火種で、「コスモポリタニズム(世界市民主義)とリベラルを信じるエリート」と、「自由主義とグローバリゼーションの恩恵から締め出された大衆」のあいだで繰り広げられる対立の火種だった。
本書『怒りの時代』では、人びとを反動と右翼政治に駆り立てる怒りの正体と、怒りの歴史的な背景の見直しが試みられている。その怒りの源こそ産業資本主義の勃興であり、それを生み出す思想的土壌となった個人主義と世俗主義ーー旧弊の打破を唱え、人間の理性と合理性を通じて進歩を遂げ、幸福を築こうと考えた啓蒙思想だとミシュラは指摘する。きわめて大胆な視点の転換だが、この視点に立つことで、現在、世界を覆っている怒りの実体が解明されていく。
政治、経済、社会の各分野に見られる前例のない今日の混乱ぶりは、19世紀のヨーロッパで産 業資本主義経済の勃興とともに始まり、20世紀前半に二度の世界大戦を引き起こし、全体主義体制とジェノサイドを生み出すと、さらに広範な地域に広がり、ますます多くの人間にいまも影響を 与え続けている。(本書「1忘れ去られた連鎖」より)
産業資本主義は、自由放任を求めるその性質上、西洋世界に無秩序と暴力をもたらしてきた。この 結果起きた最初の動乱がフランス革命で、これ以降、西洋の混乱は「諸国民の春」と呼ばれる1848年革命、さらに両次の世界大戦へと続いていく。第一次世界大戦も第二次世界大戦も、それまで長く続いてきた進歩と繁栄の歴史を逸脱した事件ではなく、近代に宿命的に備わる無秩序がもたらした必然のなりゆきだった。さかのぼれば啓蒙思想がもたらした”自由”の問題について、西洋はいまだに解決策を見出しておらず、現在、世界が経験している市民レベルの戦争もこの流れに連なっている。
本書の前半で紹介されているのがヴォルテールとルソーの対立である。二人が生きていた時代こそ、人間の理性を重んじる啓蒙思想がヨーロッパで唱えられ、政治や経済、社会において自由主義が胎動しはじめた時代だった。ルソーも啓蒙思想家の一人とされるが、近代がもたらす問題ーー個人が余計者の根なし草になり、競争社会が到来し、物質主義がはびこることをいち早く見抜いていた。
本書にも書かれているように、「ルサンチマン」というフランス語はキェルケゴールが想定し、ニーチェによって再定義された。「ルサンチマン」という言葉こそ使われていないが、弱者が強者に対して抱く憎悪や復讐心について、平民出の”浮浪児”ルソーは身をもって知っていた。大半の者が敗れ去る競争社会では、他者と競い合う過程でルサンチマンがかならず鬱積していく。
経済的合理性とアングロサクソン流の自由主義を唱えていたヴォルテールは、王侯貴族とも対等に 渡り合う自分たちフィロゾーフをエリートだと見なしていた。だが、フィロゾーフが唱えた自由や理性は、彼らのように選ばれた者たちのためのものであり、教養のない大衆には無縁だと彼らは見下していた。これに対してルソーは、パリのサロン文化に背を向け、近代にはむしろ否定的な考えを抱いていた。ルソーの『人間不平等起源論』には、社会の進歩にともない、人は富をめぐって競い合い、不正と争いを引き起こしていくという考えが「鹿狩りの寓話」として描かれている。人間は他者の欲望を模倣することで自分の欲望を確認し、その欲望を実現するために他者との競争に明け暮れ、やがて疲弊していく事実をルソーは見抜いていたのだ。
模倣による競合は個人のレベルにとどまらず、国家においても見られたと本書では説かれている。 フランスやイギリスに後れを取っていたドイツやロシアだけではなく、日本もまた「模倣の欲望」の象徴である水晶宮の建設に努め、世界規模の「横取りの模倣」という暴発に突き進んでいった。狂おしいほど魅力的だが、しかし、誰もがその欲望を満たせるわけではなく、最後には祖国のあるべき姿にアイデンティティーを求める者もいた。ガンディーがそうであり、そのガンディーの暗殺を示唆したというヒンドゥー・ナショナリストのV・D・サーヴァルカルは、イタリアのマッツィーニに心酔し、過激な民族主義を唱えた。イラン革命を率いたホメイニーにも西洋の影響はうかがえ、イスラム過激派もその系譜に連なる。イスラム国に参加した聖戦士もまた、進歩の果実にありつけなかった不満を抱えた大衆の一人にすぎなかった。
このように説くことでミシュラは、近代の自由民主主義に対する暗黙の了解に異を突きつける。フランシス・フクヤマは、『歴史の終わり』で民主主義と自由市場の勝利は歴史の必然だと説いた。サミュエル・ハンチントンは、冷戦終結後の世界では、文明と文明の衝突が対立軸になると述べた。だが、イスラム過激派やイラン革命が世俗主義に異を唱える宗教の産物ではなく、欲望の実現を阻んだ近代そのものによって生み出されたものであるなら、こうした問題を「文明の衝突」として説くことには無理がある。むしろ、いたずらに文明の衝突を唱えることは、イスラム恐 フォビア 怖症をあおり、彼らがなぜ狂信的なテロリズムに走るのか、その本当の理由を覆いかくす結果になってしまう。
9.11 のあとフクヤマは、「近代化とはきわめて力強い貨物列車で、こうした事件に遭遇しても決して脱線したりはしない。世界の大半の地域において、民主主義と自由市場が優勢な組織化原理である以上、時間とともに民主主義と自由市場は拡大を続けていくだろう」と語っていた。だが、フクヤマの師で、『アメリカン・マインドの終焉』で知られるアラン・ブルームは、フクヤマの『歴史の終わり』をめぐり、世界に対する反乱が結集するのではないかという激しい不安に駆られた。その世界とは、「これまでは市場を介して理解されることで安寧が保たれてきた」世界であり、「人間の持つさまざまな欲望を満たすことを唯一の目標としてきたグローバルな共同市場」だった。「市場に代わるものを見つけようにも、それを探し出せる場所はどこにもない。また、ファシズムに未来はないにしても、ファシズムへと向かう未来そのものが断ち切られたわけではない」と書いていた。
本書ではトクヴィルの言葉が随所に引用されている。トクヴィルもまた「平等がすばらしいものであればあるほど、平等への欲望は飽くことなく高まっていく」と書いた。25歳のときにアメリカに旅したのち、『アメリカのデモクラシー』を著したトクヴィルは、この国の民主制と母国フランスの民主制を比べ、アメリカの先駆的な役割を評価する一方で、民主制に宿る脅威を見抜き、いずれ腐敗した混乱の時代が到来すると予見していた。
*
多くの作家や詩人の言葉が縦横に引用されるため、本書をお読みになって、ある種の目眩やとまどいにも似た印象を感じた方がいるかもしれない。こうした作家や詩人のなかには歴史上有名な人物もいれば、そうではない者もいる。はじめて知ったイスラム圏の作家もいるだろう。谷崎や三島、京都学派の名前もうかがえる。「歴史家や社会学者より、作家や詩人の発言を頼りにしている」と書かれているように、こうした書き手たちが残した言葉を駆使して、ミシュラは当時の気配や空気を伝えようと試みている。
世界を覆っている怒りの源に対し、求心的に探究するのではなく、輪郭を点描してその正体を浮かび上がらせようと試みているようにも思える。しかも、話は西洋と東洋を往還し、過去と現在の往復が何度も繰り返される。その印象はカート・ヴォネガットの『スローターハウス5』にも通じるものかもしれない。一見、無作為のように見える構成だが、精密に配置されたコラージュのように本書のテーマが提示されている。また、フィヒテやバクーニン、スペンサーやマッツィーニのようなヨーロッパ人の著作が、のちの世代のインドやトルコ、中国の指導者たちに多大な影響を与えていた事実を忘れてはならないだろう。
さらに言うなら、本書を読んで感じる目眩やとまどいとは、これまで自明とされてきた近代市民社 会の自由主義や平等、進歩の理念に揺さぶりがかけられ、その欺瞞が暴かれている点に根差している のかもしれない。現代にはびこる怒りの源泉は、三世紀以上の昔から巧妙に隠蔽されてきた、支配者 層と根なし草の大衆のあいだに広がる亀裂の底に潜んでいたのだ。