たとえばあなたが会社員で、「あなたはなぜその部署で働いているのか」と質問されたとしよう。自分で志望した、先輩に推薦された、いきなり指名された、など様々な理由があると思う。そしてあなたは今、その理由を過去に遡り、上司や同僚との会話、これまでの人事移動、そして大学で勉強していた頃の風景を思い返しているかもしれない。
今の自分を鑑みる時、過去を振り返る。過去が今の自分を築いてきたと、無意識のうちに信じている。本書ではその無意識な感覚に問いかける。本当に過去の出来事が今の自分につながっているのか。自分だけではなく、周りの人々や社会情勢まで視野を広げてみる。この、”世界を時系列・因果関係の中で捉える感覚”は、この先どこまで通用するのだろうか。
本書によると、科学の進歩によって私たちの時間の感覚が変わってきている。たとえば音楽について、iTunesなどのネット配信サービスのおかげでその場ですぐに音楽をダウンロードでき、どの時代の音楽も手元で楽しむことができるようになった。私は母に「この音楽知ってる?」と80年代のポップソングの問題を出すのが好きだ。母は当時の思い出が蘇り顔が綻ぶのだが、この郷愁は、私が30年生きたあとも感じることは出来るのだろうか。色褪せない過去という概念も、科学技術の進展によりなくなってしまうのではないか。過去と現在の境目がなくなってきている。
では、過去と現在の境目がなくなったとき、私たちには何が起こるのか。著者は”「因果の物語」の終焉”と表しているが、その次に来る「物語」とは何だろう。本書の帯には、「目的もゴールもない現代に、人間はどう生きていくべきか」とある。流行りのような、この問いかけを聞かない日はないくらいだが、本書の「因果関係が通じない社会」を切り口にこの問いについて考えるのは、とてもスリリングな体験だと思う。
本書は決して楽々と読み進められるものではない。縦横無尽に文系理系の枠を飛び越え豊富な話題を提供しつつ、テクノロジーの解説についても根本となる原理から入っていく。私はとても苦労して3度往復して読み込んだ。ただ、最後まで読者を惹きつける理由のひとつとして、本書にはついていこうと思わせる信頼感がある。先を急がず、ゆっくりと歩を進める。まるで山登りのようだ。しかし頂上を期待すると、思惑が外れてしまうかもしれない。頂上のない山登り、一歩ずつ進むことに意味を見出すような感覚だった。
私は難しい本を読む時に、『知的複眼思考法』を手元に準備する。第1章の「創造的読書で思考力を鍛える」をよく読み返すのだが、以下の文章が好きだ。
それでも本でなければ得られないものは何か。それは、知識の獲得の過程を通じて、じっくり考える機会を得ることにある ー つまり、考える力を養うための情報や知識との格闘の時間を与えてくれるということだと私は思います。
読書で賢くなることはないかもしれないが、著者の思索の道を追体験する面白さならば私も味わうことができる。本書『時間とテクノロジー』も、そのような読書の醍醐味を楽しみながら、新たな切り口で世の中を見つめる、贅沢な体験を与えてくれるものだと思う。