片手袋問題に私が触れたのは、少し前のことだ。街道沿いに軍手が片方だけ落ちているのはなぜか?を検討していたバラエティのテレビ番組を見たのだ。その時、出演していたのが本書の著者かどうかは定かではないのだが、トラックの脇腹にある給油口のキャップに被せていたものが、走行中に落ちるのだ、という結論に驚いたのを覚えている。
その後、タモリ倶楽部で著者を知った。考現学にもいろいろあるが、さまざまある路上観察界の中で、片手だけ落ちている手袋を研究して、こんなにも壮大な結果を得られるとは思わなかった。
研究とは、凡人から見れば何の価値も無いもののように見える。だが、突き詰めていけば、現代とそれに連なる歴史が見え、ある程度の未来も見渡せるようになる。
著者が片手袋にハマったきっかけは、子どもの時に読んだ『てぶくろ』という絵本だったという。森の中でおじいさんが落とした片方のてぶくろに、いろいろな動物が住むはなしじゃないだだろうか?
私が初めて手にした手袋はミトン型で、鎖編みした毛糸の紐で繋がれ、首からかけるものだった。子供ながらに「無くさないようにするためだな」と気づいていた。
ことほど左様に、手袋とは片方だけ落としやすいものだ。人生で一度も手袋を無くした経験を持たない人は少ないだろう。どんなに高級なものでも、落とすときは落とす。ポケットから滑り落ちる、財布を出すとき片手だけ脱いで置き忘れる、最近ではスマホを見るために外してそのまま、と言うことも多いだろう。
著者は町中に落ちている、あるいは置かれている片手袋を見つけると、必ず写真を撮り分類を行う。その数5000枚以上。
分類にはまず、第1段階「目的で分ける」第2段階「過程で分ける」第3段階「状況、場所で分ける」がある。
第1段階には「お子様」「ファッション」「ディスポーザブル」「ゴム手袋」「重作業」「軽作業(軍手)」に分けられ、第2段階では「放置型」と「介入型」に分けられる。第3段階になるとさらに細かく分類され、道に落ちているだけでも車道なのか、横断歩道なのか、バス停なのか、それは一度拾われたのか見捨てられているのか、を発見者が判断しなくてはならない。
例えば子供用の片手袋がフェンスに掛けてあるのを発見したとしよう。これは第1段階で「お子様」、第2段階で誰かが拾ってフェンスにかけたので「介入型」、第3段階の状況・場所では「金網、フェンス系」に分類される。多分、人が最も気持ちを動かされる片手袋は子ども用のものだろう。それを見つけただけで、なんか可哀そうな悲しい気持ちになるのだ。
反対にほとんど目に入らないのが道端で落ちている軍手だろう。先にテレビ番組で見た後、気を付けて歩いていると、本当に軍手があちこちに落ちていた。第1段階は「軽作業」第2段階は「放置型」第3段階は「歩道・車道」で、ほとんど道端の枯葉と同じ扱いである。
このことを踏まえて街を歩くと、意外と発見が多い。世の中に手袋を落とす人がいかに多いか、それを拾ってどこかに置いたり掛けたりしてくれる人もまた多いことで、日本人は優しいなあと思う。
本書の後半で紹介される片手袋の拾得物の多さにも、それは表れている。警察署に届けられた遺失物は2週間で遺失物センターに移動される。東京都遺失物センターに届けられる片手袋(両手は別勘定)は1年で5万枚になるという。ほとんどが元の持ち主からの連絡はなく、破棄されており、遺失物センター所長の感想では右手が多いという。やはり利き手を外して作業しているうちに落としてしまう人が多いのだろう。
本書には片手袋の落ちている姿の写真が数多く紹介されている。植木に花のように飾られているもの、辛うじてその姿を見わけられるもの、明らかに放置されているもの、などどれも哀愁が漂っている。
私が一番興味深かったのは、海底に沈んでいる片手袋だ。海洋研究開発機構(JAMSTEC)の協力の元、「深海デブリ」と呼ばれる海底には本来存在しないもののなかに片手袋があり、それがクモヒトデの巣になっている姿は、哀れなような誇らしげなような、なんとも不思議な気分に襲われた。
さて片手袋はこれから多くなっていくのだろうか。温暖化が叫ばれる中、手袋の必要性は薄くなっていくかもしれない。人力の作業もAIが取って代われば手袋の需要は少なくなる。しかし、また新しい片手袋が登場しないとも限らない。本書はまだ研究途中である。興味を持ってこの先も注目していきたい。
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最近この手の本が無くて寂しい思いをしていた。令和考現学を行う大人が出てこないものだろうか。