『マラリア全史』など感染症をテーマとしたノンフィクションを多数著している科学ジャーナリストの最新作である。内容は疫学、認知科学、進化生物学、政治史など多岐にわたり、分野横断的だ。「移動」、「過密」、「非難」、「治療」など10の切り口から、パンデミックについて幅広く語られる。
「移動」の章では1825年のエリー運河開通をきっかけにアメリカでコレラが広がった例や、中国南部のウェットマーケット(野外市場)から始まり航空網を通してSARSが世界32ヵ国に広がった例などが取り上げられる。
著者はさらにもう一歩踏み込み、空の旅が一般的になり「弱っているため他の手段では移動できなかったような感染者」が移動できるようになった点も指摘する。従来は伝染性病原体の地球規模の蔓延にほとんど関わりのなかった外科手術患者が、世界を旅できるようになったことでその一端を担う可能性を持つようになったのだという。
ここで掘り下げられているのが、アメリカ、ヨーロッパ、中東、その他の地域から毎年何十万人もの人々が治療のためインドなどの国を訪れる、医療ツーリズムである。著者が実際に訪れたニューデリーのとある病院では、欧米の病院と同じ水準の医療が5分の1の価格で提供されていた。
いったん手術を受ければ、体内の組織はニューデリーの独特の微生物環境にさらされる。インドの病院の細菌であるグラム陰性菌は、西洋の病院で優勢なグラム陽性菌よりも抗生物質や消毒薬に抵抗がある。また、下痢と結核で年におよそ100万人が死亡しているインドでは、抗生物質の使用を規制しておらず、病原細菌の多くは抗生物質に対して鈍感だという。
少なくとも2006年以降、ニューデリーにはNDM-1という酵素を生産する有害な病原菌が存在する。この酵素を生産するプラスミドと呼ばれるDNAの断片は、細菌の種を超えて広がり、他の細菌に14種類の抗生物質に耐える力を付与するという。それらの中には患者に最後の手段として投与されることの多い、強力な抗生物質も含まれている。NDM-1を生産するプラスミドが病原細菌に入り込み耐性を与えれば、その菌株はほとんど治療不可能になってしまう。
空の旅が気軽に行えるようになったことで、ほとんど世に知られてこなかったこうした病原体が海を飛び越えることができるようになった。NDM-1は医療ツーリストによって、2012年には世界の29ヵ国へ広がっていた。現在のところ、この酵素を生産するプラスミドの大部分は、健康な人の口や皮膚、大腸菌のように体に害を及ぼさずに生きる細菌の中で見つかっている。だがこのような移動が活発になればなるほど、危険な病原細菌に抗生物質への耐性が与えられ、止めることが困難な感染症が生まれる可能性が高まっていく。著者が話を訊いた医師の一人は、そうした事態が起きた場合、「骨髄移植、あれやこれやの交換──そうしたものがみなできなくなってしまうだろう」と予想した。
パンデミックの話になるとこうした底知れぬ脅威というのが印象に残るものだが、それらが現実のものとなるためには、さらに多くの要素が結びつかねばならない。病原体がいたるところに存在していたとしても、適当な伝播の機会に恵まれることがなければパンデミックが引き起こされることはないという。
本書では他にも、気候変動、飼育場などの汚染、病原体の脅威に対する人々のヒステリーなど様々な観点について書かれているが、それらが組み合わさった時に最悪の事態が起こるという意味で、すべてが関わる可能性を持つのと同時に、どれか一つが絶対的に脅威だということでもないのだろう。
比較的最近の事例について触れてきたが、過去の出来事を豊富に取り上げることで、歴史的な流れを描き出そうとしているのも本書の特徴の一つである。
19世紀イギリスにおいて瘴気説と闘った麻酔医ジョン・スノーの物語や、100年以上前から近年に至るまで様々な国家で起きてきた、政府による感染症の隠蔽工作。19世紀中ごろのマンハッタンに存在し多くのコレラ犠牲者を出した、「ファイブ・ポインツ」という、今はなきスラムの話。さらには、太古の昔から続くヒトと病原体の深い関係について振り返り、パンデミックは私たちの生物学的遺産の一部でもあるということにも触れられる。
どの時間軸で眺めるかによって、病原体やパンデミックに対する印象も変わってくる。短期的なスパンだけ見ればパンデミックの緊迫感や脅威に目が行く一方で、微生物を見つける技術が開発されてからまだ2世紀も経っていないと考えると、ウイルス研究はまだまだこれからだという気がしてくるだろう。太古の昔まで遡れば、病気をもたらす敵でもあると同時に守ってくれる味方でもあり、さらにはゲノムの中に組み込まれて私たち自身の一部にまでなっているという事実も浮かび上がる。本書でそれらの視点を行き来していると、私たちと病原体との歴史が、時計の秒針・長針・短針のごとく、それぞれ異なる速さで流れていくような重層的なものに感じられる。
時代も地域も分野の壁も横断することで、著者は捉えることの難しいパンデミックの実像を描き出そうとする。それは決して、シンプルな見方ができるようになることを意味しない。膨大な事例を通して実感させられるのは、いかに多くの要因が絡んでくるのかという複雑さである。
潜在的脅威と防御への可能性、そして背景にある歴史。いずれも十分に知られているとはいえないだろう。不安を煽ることも根拠のない安心感を与えることもせずに、知っておくべきことが淡々とまとめられている本書は「感染症時代」を考えるための心強い手引きとなるはずだ。
内藤順のレビュー