科学はどのように進歩するのか? 多くの人はおそらく次のようなイメージを持っていると思う。我々凡人からはかけ離れたすさまじい洞察力を持つ希代の大天才が、誰の助けも借りずにたった一人で自然界の秘密の一端を完璧な形で看破し、一瞬にして人類の知識を飛躍させる、と。さらに、科学研究は我々からは遠い世界で進められていて、我々とはまったく無縁の営みだと考えている人も多いだろう。もちろん、科学研究が生み出した製品や技術は、確かに我々の生活に役立っている。しかし、科学研究そのものは我々の日常生活とは無関係で、まるで宗教のように浮き世離れした崇高な営みだと感じている人がかなり多いのではないだろうか。
だがけっしてそんなことはない、と本書は説く。科学はそもそも、太古から人類が持っていた、身の回りの世界のことを理解したいという本能的欲求に端を発している。だから、科学的な探究をしたいという思いは、どんな人の心にも秘められている。
またいくら超大物の科学者でも、我々一般人と同じくなかなか前に進めずに苦悩し、ときにはまったく見当違いの道を進んで膨大な時間と努力を無駄にしたり、どうしても同業者の手助けを必要としたりする。偉大な人物たちも、我々と同じようにけっして完璧な超人ではなく、歴史の趨勢や経済的事情、社会や文化の環境などに振り回されてきた。科学の歴史を太古から現代までたどった本書では、このような科学の人間的側面こそが中心的なテーマとなっている。
科学研究の時代的な流れを人類の誕生から量子論の発展まで追いかけることで、科学という営みがどのような考え方に基づいているのか、科学はどのようにして進歩してきたのか、そして偉大な科学者たちがどのような道をたどったのかを、本書はまざまざとあぶり出している。
本書を貫いているもう一つのテーマが、科学法則とは何なのか、というものだ。人間は数学的な法則を通じて自然界を理解しようとする。というより、法則の存在を前提にしないと自然を理解することはできない。ではその法則は、もとから自然のしくみに備わっているものを人間が発見したのか、それとも人間が発明して恣意的に当てはめたモデルにすぎないのか。著者は、自然法則にはこの二つの側面の両方があって、個々の事例に応じてどちらにもとらえることができると論じている。科学の発展の全体像を理解するには、この両方の側面から科学法則を見つめる必要があるということだろう。
本書ではたびたび、著者の父親のエピソードが語られている。父親は戦争に翻弄されてまともな教育を受けられなかったが、それでも知的好奇心を発揮して、科学の本質にかかわる質問をしばしば著者にぶつけていた。そんな父親との交流が、著者の科学者としての考え方や歩みにどれほど大きな影響を与えたかが、行間からにじみ出ていると思う。
本書は3部構成になっている。3つの部は時代順に並んでいて、そのそれぞれで科学史上の大きな出来事が語られているが、それとともに各部には大きなテーマがある。第1部は、世界を理解しようという科学的探究の由来について。それは人類の誕生にまでさかのぼるという。第2部は、権威や宗教でなく理性に基づいて世界を探るという考え方の発展について。よく語られている地動説や進化論だけでなく、化学や生物学の発展も、伝統や権威でなく道理に基づいて進めるという考え方がもとになって生まれたという。第3部は、人間の五感ではとらえられない世界が現実のものとして受け入れられてきた経緯について。
とくに注目すべきが、この第3部で語られている原子や量子の概念の確立を、科学史上きわめて重大なブレークスルーととらえている点だろう。それは単なる知識の発展を意味するだけでなく、人間がけっして見ることのできない存在の実在を受け入れるという、とてつもなく大きな発想の転換だったという。量子論の誕生と発展を歴史的にたどるだけでなく、何よりもそれに伴って人間の考え方が一変したことを、著者は強調しているのだと思う。
本書はけっして科学史全体をくまなく網羅した本ではない。科学史上の重大な出来事をすべて取り上げようとしたら、膨大な紙幅が必要となってしまう。本書の主眼はそこではない。科学研究という営みの歴史をたどることで、科学の本質、科学者の人間的側面、そして人間特有の自然の見方を探っていくことこそが、著者の一番の狙いだったのだろう。
著者のレナード・ムロディナウは、1954年アメリカ生まれの物理学者・作家。1981年にカリフォルニア大学バークレー校で博士号を取得したのち、カリフォルニア工科大学やドイツのマックス・プランク物理学研究所などで量子力学の理論研究をおこなった。しかしエンターテインメントの世界に惹かれて1985年に転身、科学の知識を生かして『新スタートレック』や『冒険野郎マクガイバー』などの脚本を書いたりコンピュータゲームの制作に携わったりした。その間も物理学の研究を続けるとともに、一般向けや子供向けの科学書の執筆を始め、2005年にカリフォルニア工科大学に戻ってきて教鞭を執るようになった。2005年と2010年にはスティーヴン・ホーキングとの共著を出版、いずれもベストセラーとなる。本書は自身10冊目の著書。邦訳のある著書としては次のものがある。
2016年3月 水谷 淳