常に裏舞台で働くことを好み、自己宣伝や世間からの注目を極端に嫌ったアンドリュー・マーシャルの名を知る者は少ない。しかし、「ペンタゴンのヨーダ」と呼ばれ40年以上にわたって政府高官としてアメリカの安全保障に貢献してきたこの男の明晰な頭脳から生み出せされた戦略からは、誰もが無縁ではいられない。マーシャルは、冷戦中のソ連がCIAの推計よりもずっと多くの軍事負担に苦しんでいることを指摘し、精密兵器や広域センサーなどの技術進化がもたらす「軍事における革命」という概念を提案し、何より多くの研究者や高官に多大な知的影響を与えることでアメリカの戦略に変革を起こし続けた。マーシャルがいなければ、世界地図は現在のものとは違ったものになっていたはずだ。
本書では、これまで知られることのなかったマーシャルの「知の歴史」が、第二次大戦以降のアメリカの国防戦略の変遷とともに描かれる。マーシャルの業績の多くは未だに機密扱いであるけれども、マーシャルの下で働いた経験を持つ2人の著者は、マーシャルが世界をどのように捉え、権力と権力がぶつかり合う官僚組織の思考に変革をもたらしたのかを実際のケースを基に教えてくれる。
1921年にデトロイトに生まれたマーシャルは、知的好奇心が旺盛で、読書が好きな少年だった。ブリタニカ百科事典のためになけなしのお小遣いを貯め続け、図書館では文学、軍事、哲学ととにかく次々と読み漁っていったという。そして、アーノルド・トインビー『歴史の研究』と出会い、多様な文明はどのように生まれ変化したのか、国家はどのように拡大し衰退するのか、歴史の幅広い流れを理解し始めたという。マーシャルの自ら学ぼうとする姿勢、既成概念に囚われることなく目の前の現実に向き合うという信念は、幼少期に既に形作られていた。
マーシャルは第二次大戦後にシカゴ大学で経済学を学び、フランク・ナイトの人間の意思決定理論に大いに影響を受けた。その後大学院で研究を続けながら、エンリコ・フェルミが率いたシカゴ大学の核研究所の非常勤スタッフとなった。他にもミルトン・フリードマン、ケネス・アロー、ハーバート・サイモンなどのキラ星のごとき天才たちとの出会い、議論がマーシャルの思考の土台をより強固なものとしていく。
第二次大戦の終わりが見え始めたとき、先見性ある軍の指導者は戦後に訪れるだろう人材確保の問題に頭を悩ませていた。急速に発展する科学技術環境のなかで軍事技術を最新に保つためには大量研究者が必要だったのだが、軍関連機関に所属していた研究者たちは大学への復帰を希望していたのである。その懸念を解消するべく、1945年10月1日に第一級のシンクタンク設立を目指したプロジェクト・ランドが立ち上がった。このプロジェクト・ランドは多くの頭脳の受け皿となり、急速に発展していくこととなる。
初期のランドの人材がエンジニアリングと物理科学に偏っていたのは、原子力の時代が幕を開けたばかりであることを考えると、当然のことなのかもしれない。マンハッタン計画参画者も多くがランドに加わっていた。ところが、1947年頃には科学技術以外の新たな力の必要性が明らかとなっていた。求められたのは、核戦争の遂行や抑止にはどのような方法や手段が望ましいかという問に判断を下す能力であり、それは社会科学者が得意とする領域であった。不確実な現実と向き合うためには、文理の間に線を引き優劣をつけるのではなく、専門性を活かし合う術を高めることこそが求められる。
1949年1月に統計分析専門の社会科学部の一員としてランドに加わったマーシャルは、統計手法で水素爆弾の開発に関わることとなる。その研究の途中にネバダ核実験場で小型核実験を目撃したことが、彼の核に対する見方を大きく変えた。マーシャルはこのような言葉も残している。
核保有国の指導者は、核兵器のすさまじい破壊力を実感するためにも、生涯に一度は核爆発をその目で見る義務がある。
ランドで傑出した成果を上げ評価を高めていったマーシャルは、同僚の物理学者ハーマン・カーンと共同で、ランド研究所のアプローチの問題点を明らかにした。ランドは「モデル」を重視し過ぎていたのだ。モデルは十分に現実を描写できていない場合があるにもかかわらず、多くの分析官がモデルを通して現実を理解しようとしていた。例えば、人間を合理的意思決定するという前提に立ったモデルを通して考えることで、ソ連が戦略核戦力に対しても合理的な判断を行っていると想定していたが、ソ連の実態を伝える証拠はその反対を示すことが多かったのである。
マーシャルは分析手法だけでなく、その起点となる情報の収集・流通方法にも大きくメスを入れていく。核による最終戦争が現実味を持っていた冷戦時代にすら、CIAは大統領に伝えるニュースの重要度の判断基準として、ニューヨーク・タイムズ紙の記事を参考にしていたという体たらくぶりだったのだ。
そこからマーシャルは、国家の安全保障のためにはどのような情報を入手し、それをどのような枠組みで分析する必要があるのか、そのためにはどのような組織が必要なのかを追い求めていく。もちろん、国防を司る官僚組織に新たな手法を導入することは容易ではない。マーシャルの取り組みは、官僚や政治家だけでなく、大きな組織を動かしイノベーションを起こそうとするビジネスマンにも大いに参考になるはずだ。
マーシャルの「知の歴史」を綴った本書ではあるが、この本を読み終えても、彼がどのような分析を行ったのかという具体的手順などは見えてこない。それは、その全容が機密事項であることに加えて、マーシャルが答えを出すことではなく問を発することを重視していたからだ。マーシャルは部下へ具体的な指示を出すことはなく、調査とデータの重要性を強調しながら、何度も軌道修正しながらゴールへ導いていったのだという。マーシャルの姿勢は、複雑な世界で不確実な未来と向き合いながら、より強く前に進むためには何が必要なのかを教えてくれる。
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