やっと終わった。文庫の作業が終わったという意味だけではない。ふだんは見ないようにしていながらも、部屋の片隅にずっとうずくまっていた童子のような存在と向かい合い、やっとうちから出ていってもらうことができたような感覚に今私は浸っている。自分の仕事を褒めるのは抵抗があるが、いい内容だと思う。その満足感、責任を果たせたことの安心感に浸るとともに、童子がいなくなったことの寂寥感もある。
今から十数年前。雑誌の連載で上野の男娼に話を聞いてみようと思った。さして深いことを考えていたわけではなく、ちょっとした思いつきに過ぎなかったのだが、この時の内容がすさまじく面白かった。この面白さは2人の個性に負うところも大きいのだが、彼らは、彼らの存在を越えて私に大きな課題を与えてくれた。
古い雑誌ではよく見ていたノガミ(※上野)の男娼とこの2名がきれいに重なった。その時代から立っていたわけではないのだが、その世代の人たちがまだ現役だった頃から彼らはここに立っていたため、言葉やしきたりがなお当時のまま残っている。だったら、他の地域にいる人にも聞いてみたい。男娼だけじゃなく、女たちにも聞きたい。日本人街娼は高年齢化が進んでいるため、急がないと間に合わない。
時にはこれらの取材を掲載してくれる雑誌もあるのだが、高年齢の街娼たちの話を面白がる編集者はなかなかいない。連載の中に無理矢理入れ込むしかないのだが、読者も興味を抱かないので、毎度続けることもできない。しかし、仕事というより、これは使命なのだと自分に言い聞かせた。
この頃は取材で全国各地に行く機会があったため、そのついでに取材をすることができた。その時間、街娼は商売にはならないので、謝礼は必ず払っていて、掲載するところがなければ無駄になる。しかし、掲載されなくても、その作業を続けた。記録に残しておきたいという一念と、なにより皆さんの話を聞くのが楽しかったからだ。それを続けることで、今まで見たことのない世界が見られた。
情報を得てその地に行っても「数年前まではいたけどね」と言われてしまうこともあった。那覇がそうだった。那覇には古くから立っていた人がいたらしいのだが、「最近は見なくなったね」と男の客引きが言っていた。八戸や仙台でも聞きまわったのだが、見つけることはできなかった。
もちろん、断られることもある。客引きのおばちゃんに信用してもらうため、遊びたくもないのに遊んで、その次には手土産まで持っていったのに約束をすっぽかされたこともある。
インタビューはできたのだが、客引きのおばちゃん、彼女が抱える女の子、男娼の3名とメシを食いながらのインタビューで、ここに鉄板焼き屋の店主の言葉と鉄板焼きの音、BGMが加わる。皆さん、ベタベタな方言なので言葉が聞き取れず、文字起こしに挫折したこともあった。この客引きのおばちゃんの生き様がかっこ良くて、数年後、改めて話を聞きに行ったのだが、すでに引退をしていた。会うことはできたのだが、鬱病の薬を飲んでいるとかで、ほとんど会話はできなかった。
そんなこんなの無駄足もありつつ、それでもめげずに話を聞き続けた。
しかし、風俗ライターを辞めて、地方に取材に行くことがめっきり減り、街娼取材は諦めるしかなくなった。交通費まで自腹を切ったところで、いるかどうかもわからず、いたところでインタビューができるかどうかもわからない。この使命はこれで終わりだと思った。
この当時、単行本にする話もあるにはあったのだが、お断りした。本書にもそのやりとりが掲載されているように、多くの場合、インタビューの際には「雑誌で出すかもしれないし、いつか本になるかもしれないけど、とにかく記録をしたい」という説明をして承諾してもらっているので、権利的には問題はないのだが、まだ生々しすぎる。
身元がばれて迷惑をかけるかもしれない。同じグループの人たちが「勝手に自分たちのことを話しやがって」と立腹するかもしれない。仕切りのヤクザに追い出されるかもしれない。
雑誌なら文字数も少ないので、すべてを掲載することは最初から無理であり、迷惑をかけかねない内容は外すことに抵抗は薄く、読む人も限られるので、クレームがついたことはない。
しかし、本にするとなれば、できるだけ語ってくれたことを収録したい。それだけにリスクはある。
幸か不幸か、高年齢の人たちである。10年もすれば大半は残っていないだろう。本にするのであれば、それからでもいい。という話を編集者にしたのだが、そのままになってしまった。
貴重な証言を聞くことができた。私ができることはやったろう。そもそも読みたがる人もいない内容なのだから、無理をして出す必要もない。そう納得してきた。
昨年、新潮社の編集者から「街娼インタビューを文庫にしませんか」という話があった。彼は私のメルマガをずっと購読してくれていて、この辺の事情も知っている。
自分の中では終わっている話であり、「いまさら」という思いも正直あった。10年ちょっと前に風俗ライターを辞めたことについては複雑な思いがある。こっち方面から自ら遠ざかろうとしたところもあって、積極的に関わりたいとの気持ちがもうない。自分自身の興味が他者には伝わらない虚しさもあって、過去にやってきたことすべてに関して「もういいや」というところがあった。
しかし、他の原稿はともかく、また私自身の個人的な思いはともかく、街娼インタビューは形にして残しておくべきかもしれない。文字起こしだけは終えて、一切発表していないインタビューもある。このままにするのはその人たちに申し訳がない。
今現在、読みたがる人たちがいなくても、その時代その時代で、このインタビューを必要とする人たちが少しはいるはずだ。私と同類の人たち。記録は残したと言っても私のパソコンの中に残しただけで、このままではそれらが「未来の私」に伝わることはない。
文庫にすることで、この作業を終わらせることにした。
原稿を探したのだが、何本かは行方不明になっていた。たぶん読み込めなくなったハードディスクの中に入ったままなのだと思う。「全国の街娼」としたかったのだが、東北が抜けているのは1人として出会えなかったため。中部が抜けているのは名古屋でのインタビューが2本とも見つからなかったため。四国では高松にあるちょんの間の70代に近いおねえさんにインタビューしているが、街娼は見つからず。ちょんの間はまたジャンル違いになるため、今回は入れないことにした。
見つけることができたのは16本、20人分。うち2本は外した。1本はあまり語りたがらなかったために内容が薄い。地域も他と重複している。もう1本は若い男娼のインタビュー。ゲイ相手の男娼であり、男装である。内容は十分に濃く、相当に面白いのだが、すべてにおいて他と断絶しているので、収録すると間違いなく浮く。
収録することにしたインタビューはすべて文字起こししたものからまとめ直しており、雑誌掲載時より数段細かく、数段長い。本文に付記しているように、数年後に会いに行ったら見つからなかった人もいて、今ではもう路上に立っていない人が多いだろうと思う。それでももしものことがあるので、本名はもちろん、街娼の世界での名前さえ伏せているものがある。これを見て「私の名前はそのまま出して欲しかった」という人もいるかもしれないが、そういう事情なのでご理解いただきたい。
また、組の名前やショバ代の金額まですべて語ってくれた人たちもいるのだが、さすがにそこは収録を諦め、ヤクザのからみのない地域の人たちの言葉で説明するに留めた。その辺の事情もインタビューから読み取れるはずだが、非合法であるこの商売にとって、時にヤクザはいた方がいいこともあって、私としては彼らを敵視するつもりはない。ヤクザを批判するなら、ヤクザの介入を招いた売防法を撤廃してからだ。
第1部は完成したのだが、その背景にあるものが見えにくい。彼らの存在を照らすために、「街娼の歴史を書いて欲しい」と編集者に言われ、2部構成の大著になった次第。
第2部の「日本街娼史」は10年以上前に書き、未発表だった原稿が元になっている。これも本にする話が少しはあったのだが、戦後編の途中で、うっかり1章分をきれいに消去してしまい、そこでやる気をなくして放置した。今考えると、理解がまだ十分ではなかったところがあるので、当時本にしなくてよかったと思う。
この挫折した原稿が原稿用紙で500枚から600枚くらいあって、それを大幅に削り、メルマガにこつこつ書いていたものを加え、今回、一部書き下ろした。
これも無事完成したのだが、一点、編集部の要望に応えられなかった点がある。収録したのはもっとも新しいものでも2008年のインタビューだ。そこで、「最新のものを入れられないか」と言われた。
ここに収録されていない地域で探したのだが、横浜や立川では日本人街娼は見つからず。歌舞伎町でそれらしいのを見たのだが、まともに話ができそうにないので声をかけずに終わった。浅草で声をかけたら元街娼だと言う。この日は忙しいというので、別の日に話を聞く約束をしたのだが、すっぽかされた。たぶん彼女は元ではなく、現役だったのだと思う。
ちょうど担当編集者が熱海に行くというので、「街娼がいるはずなので見て来て欲しい」と依頼した。ずいぶん前に見かけているのだが、その頃はまだ街娼取材をしておらず、そのうち行こうと思いつつ、そのままになってしまった。熱海だったらそうは金もかからないので、今もいるのであればダメ元で交渉に出向く価値はある。
彼が熱海で聞いたところ、老街娼がいたのだが、ほんの数年前に亡くなったとのことだった。間に合わなかったか。
本書に収録されたインタビューの人たちが今もやっているのだとすると、文庫にすることの確認をとり、掲載料を改めて払いたいと思い、渋谷、上野、鶯谷に足を運んだが、一人として会えなかった。
上野はショバが工事中のため、移動しているのかもしれないし、休んでいるだけかもしれない。鶯谷では、彼女がいたショバでは他の客引きも見かけなかった。渋谷には彼女を知る客引きと出会えて、「トラブルがあってグループが解体し、彼女は現在横浜にいるのではないか」と教えてくれた。しかし、あまりに茫漠とした情報で探しようがない。
結局、1人も会えておらず、あの人たちは実在したのだろうか。そんな思いさえする。
日本人街娼はまだいる。しかし、一部地域を除いて、その数は年々減っており、この取材を続けようと思っても困難になってきている。改めて私の使命はこれで終わったのだと実感した。
第2部をまとめ終えた直後の昨年12月半ば、台北を訪れた。台北でセックスワーカーの支援活動を続けるCOSWASが主催するワークショップに日本の支援団体SWASHを招待、私もそれに同行し、「都市の再開発と浄化」というテーマで話をした。
いつでも行けると思いながら、この歳まで台湾に行ったことはなく、台湾の法規制と台北における条例、性風俗産業の現状などを教えてもらい、COSWASのメンバーの案内で古い歓楽街が残る市内の萬華を訪れた。
強烈な夜だった。いたるところに街娼が立つ。その数四百人。屋台でメシを食べていても、そのすぐ横を街娼たちが次々と通り過ぎ、客がいると値段交渉を始める。
かつてのラクチョウ(※有楽町)、ノガミ(※上野)はこんな状態だったのかと印刷物でしか知らない焼け跡の時代をそこに見た。ここまで街娼が増えたのは近年のことであり、焼け跡の日本とは事情が違うのだが、であるが故に新たな好奇心をかきたてられた。もっと知りたい。街娼のおねえさん方に話を聞かせてもらい、日本と通じるものもありつつ、違う点も当然あって、さらに強い関心を抱いた。もっともっと知りたい。
10年以上の年月を置いてやっと街娼についての原稿をまとめ終えたほんの数日後にこんな夜を迎えることになるのは何かの意味があるのだと思わないではいられなかった。
日本の街娼についてはこの本で終わった。次は台湾について知りたい。今年中に、1カ月くらい萬華に滞在しようと思っている。
2016年2月 松沢 呉一