近年の医学の進歩は、人類に多くの幸福をもたらした。1850年のアメリカでは4人に1人の赤ん坊が1歳の誕生日を迎えることができなかったが、今日のアメリカでは1歳前に死亡する赤ん坊は1000人のうち6人に過ぎないという。出産で死亡する女性も激減し、寝たきりにならざるを得なかった老人は人工関節でスポーツを楽しむことすらできるようになった。先進国で伸び続けた寿命だけをみても、医学の成功は明らかだ。
ニューヨーク大学トランスレーショナル・メディシン教授である著者は、30年以上にわたってヒトの健康と細菌の関係を研究しながら、その奇跡を目撃してきた。しかし、時計の針が進むに連れて著者は、満足感ではなく、違和感を覚えるようになった。それは、なんとも拭い去れない奇妙な感覚。「私たちは現在、かつてより病気にかかりやすくなっている」のではないか、私たちは肥満、若年性糖尿病、喘息や花粉症のような「現代の疫病」に苦しんでいるのではないか。
「現代の疫病」が広まるスピードは想像を超える。肥満を例に取れば、世界的な体脂肪の蓄積は過去数世紀ではなく、たった20年程度の間に起こっている(アメリカ人の肥満率は1990年の12%から2010年の30%に激増している)。フィンランドでは1950年以降に自己免疫型糖尿病の新規発生率が550%も増加し、先進国で湿疹を持つ子どもの数は過去30年で3倍になった。医学の進歩に逆らうような現象を目にして、著者の頭に疑問が駆け巡る。
なぜ、こうした病気が同時期に先進国で増加し、西洋化された開発途上国においても流行し始めたのだろうか。単なる偶然の一致なのか。10の現代の疫病があるとして、10の原因があるというのだろうか。
本書は、米国感染症学会会長も務めた著者が、自身の細菌研究を振り返りながらこの問の答えに迫っていく。その過程で、細菌の多様な役割は善玉・悪玉の二元論で割り切れるほど単純なものではないことが痛感されるはずだ。そして本書を読み進めれば、我々を構成する細菌が急激に失われており、その欠如がもたらすものは到底無視できるものではないことが、明らかになっていく。本書には、進歩し続ける医学に対して、私たちがどのように向き合うべきかという実践的なアドバイスも収められている。
この世は細菌に満ちている、といっても言い過ぎではない。細菌はあらゆるところに存在し、遺伝的多様性も他の追随を許さない。トウモロコシとヒトの遺伝的距離の方が、大腸菌とクロストリジウム属菌のそれよりも近いというほどなのだ。人体も例外ではなく、ヒトの身体の内外には1万種の細菌が常在し、その重量は合計で約1.3kgにまでなる。著者は、この細菌をそっくり失うことは「肝臓や腎臓を失うに等し」いという。
これほどバラエティ豊かな細菌の中には、ヒトに死をもたらすものも少なくない。ジフテリア、腸チフス、結核などは、産業革命によって爆発的に増加した人口が密集して暮らす都市を直撃した。1900年のアメリカでの死因第一位は結核だった。その後人類はペニシリンに代表される抗生物質を発見し、徐々に細菌による感染症を克服していく。「20世紀後半から今日まで続く医学上の偉大な進歩の大半は、抗生物質の開発によって触媒されてきた」のであり、「抗生物質は原子爆弾を手に入れたようなものだった」と著者はいう。
抗生物質の効果はあまりに強力で、明らかな副作用はないと考えられてきた。その絶大な効能のために、医者はあらゆる場面で抗生物質を処方し、患者はあらゆる場面で処方箋を求めるようになった。抗生物質の処方量は右肩上がりを続け、米国疾病予防管理センター(CDC)の統計を基に考えると、現代のアメリカの子どもたちは20歳になるまえに平均で17クールの抗生物質の処方を受けていることになる。ところが、抗生物質の過剰使用は、人類の思いもよらない副作用を伴っていたのだ。
抗生物質過剰使用のもたらす問題の1つは、薬剤耐性菌の出現である。抗生物質という「選択圧」を耐えぬく細菌はどれだけ少なくとも、ゼロでない限り増殖していく。過剰使用によって進化の速度は加速され、製薬会社の新薬開発は耐性菌の出現に追いつかなくなってしまう。2013年9月にCDCはアメリカにおける薬剤耐性菌の全体像を示す報告書を発表し、抗生物質の過剰使用によって我々が「破滅的な未来」に直面していると警告している。
抗生物質過剰使用の副作用は薬剤耐性菌だけではない。過剰な抗生物質によって、人体に必要な細菌までが失われているのだ。ここで問題となるのは、どの細菌がヒトにとって有益で、どの細菌が有害なのかは容易には判断がつかないということだ。WHOがヒトに胃がんの発がん性を認めたピロリ菌でさえ、その不在は福音とはならない。
著者がピロリ菌の意外な働きに気がついたきっかけは、自身の手痛い経験にある。H・ピロリが産生するCagAと呼ばれるタンパク質が胃がんの原因であることを発見した著者は、自身がピロリ菌保有者であることがわかると、自らを研究対象とすること決意し抗生物質を飲む。抗生物質による治療は成功し、著者の身体からピロリ菌はいなくなった。胃がんの恐怖から解き放たれたと思っていた著者を襲ったのは、夕食後の胸焼け。経験のない胸焼けの正体を突き止めるために研究を進めた著者は、ピロリ菌の根絶が食道の病気発症率を2倍に引き上げているという事実を突き止めた。更なる研究ではピロリ菌が胃酸の調整を助けていることまで明らかになっている。ピロリ菌はヒトにとって有益だろうか、それとも有害なのだろうか。ピロリ菌の全てが解き明かされたわけではないが、衛生状況が改善し、抗生物質の溢れる現代でピロリ菌が失われていることは間違いない。
本書には他にも、アメリカで販売される抗生物質の70~80%が家畜向けに使用されている、出産後数日から分泌される母乳には微生物のみが消化できるオリゴ糖が含まれている、などといった興味深い事例が満載であり、単純ではない細菌と人類の関係性を楽しみながら読み進めることができる。本書の中で著者は繰り返し、抗生物質は人類にとって有用であり、今後も使用すべきだと強調する。副作用があるからといってその全てを投げ出してしまっては、より多くの命が失われてしまう。著者は「それらをもっと賢明に使うべきである」と説く。ヒトと細菌の切っても切れない関係を知ることができ、抗生物質と賢く付き合うためのヒントに満ちた一冊だ。
内藤順のレビュー。
こちらも、みすず書房×山本太郎翻訳の一冊。人類を突如襲ったエイズはどのようにこの世に出現したのか。レビューはこちら。
抗生物質の歴史を語る上で欠かすことのできないサルファ剤誕生の物語。仲野徹のレビュー。