「この程度の傷、たいしたことではない。」
男は、心の中でつぶやいた。チンパンジー狩りには困難がつきものだ。引っ掻かれ、噛みつかれるのには慣れている。今回の狩りがこれまでと違っていたのは、狩りの最中に負った傷にチンパンジーの返り血を浴びたことくらい。
「いつものことだ。」
男は再びつぶやき、いつものように家路を急いだ。
男の思いもよらないところで、この狩りは、いつものものとは2つの点で異なっていた。1つは、獲物となったチンパンジーがSIV(サル免疫不全ウイルス)に感染していたこと、もう1つは、返り血を浴びた男が種の壁を越えてSIVに感染したこと。この違いが、人類の運命を大きく変えた。そう、1921年に中部アフリカで行われたこの狩りこそ、中世ヨーロッパの黒死病以降、人類最大の「疫病」となったエイズの起源なのだ。
6,000万人以上に感染したHIV(ヒト免疫不全ウイルス)はこのように誕生した、かもしれないと本書は提案する。タイムマシーンでもない限り、エイズが誕生した瞬間を完全に特定することはできない。科学者にできることは、あり得たシナリオの可能性を示すことだけた。カナダのシャーブルック大学で医学部教授、微生物学感染症学科長を務める著者ジャック・ペパンは、様々な可能性を定量的に検証していく。そして、これまでに3,000万にものぼる命を奪ったウイルスがどのように世界中に広がっていったのかについて、新たな提案を行う。
生物学、ウイルス学だけでは、エイズの起源を突き止めることはできない。ヒトからヒトへ、どのようにウイルスが伝播していったかを知るためには、ヒトの営みそのものを知る必要があるからだ。ペパンは、遺伝子系統解析はもちろん、アフリカにおける植民地政策、売春婦たちの生活形態にまで視野を広げて事実を積み重ねていく。数多に提案されてきた起源の可能性を1つずつ棄却しながら、エイズ誕生の「そのとき」に迫っていく論理構成は、発言の矛盾をつきながら徐々に犯人を追いつめていく探偵のようである。
犯人捜しの末に特定の誰かを非難することが本書の目的ではない。最も確からしい可能性を描き出すことで、陰謀論や誤った認識を排し、次の大感染を防ぐための教訓を得ることこそが、本書の狙いである。このテーマには、科学的根拠のない通説があまりにも溢れている。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」とはビスマルクの言葉だが、ペパンは学ぶべき歴史をより確かなものとしてくれる。
1981年に初めてエイズが報告されて以降の歴史については、多くの学術論文や書籍が論じてきた。しかし、1981年以前のエイズの歴史については、ほとんど語られることがなかった。そのため、エイズの起源に迫る初の試みとなる本書の内容は、エイズ研究の専門家たちからも高く評価されている。膨大な調査から導かれたファクトとそれを巧みにつなぎ合わせるロジック、更には索引や参考文献も完備されていることを考えれば、4,000円(+税)という本書の価格も決して高くない。
それでは、アフリカの森深くに住むハンターが「患者ゼロ」だったのだとしたら、どのようにHIVは拡大していったのか。ペパンは、初期の拡散には1900年代初頭の仏領植民地での医療政策が大きな役割を果たしていたことを明らかにする。人々を苦しめる熱帯病の撲滅を目指した政府の善意、患者を救いたいという医師の熱意が、HIVを森の奥から連れ出してしまったのだ。また、植民地における歪んだ都市の人口構成(男女の不均衡)も、売春の隆盛を呼び込むことでHIVの流行に一役買っている。そして、HIVがハイチへと脱アフリカを成し遂げたとき、パンデミックは不可避のものとなった。様々な偶然がどのように積み重なっていったのか、謎は着実に解き明かされていく。
本書では、実に多くのデータが図版やグラフと共に紹介されている。そして、そのデータ1つ1つは先行研究者達の気の遠くなるような努力の賜物だ。例えば、チンパンジーがどんな種類のSIVに、どの程度の割合で感染しているかというデータがあるが、このデータは研究者がチンパンジーの住む森を徹底的に歩き回ってやっと得られたものである。野生のチンパンジーから採血することは実質不可能なので、ウイルス感染の実態把握のためには、糞や尿を分析しなければならないからだ。亜種毎の糞の分別、同一個体の二重カウントを避けながらの作業の困難さは、想像に難くない。
本書の最後に提案される、次の大感染を防ぐための教訓には同意しかねる部分もある。しかし、批判も含めた未来へ向けての議論の活発化こそペパンの意図するところだろう。エピローグに至る頃には、あなたなりの未来への教訓が頭に浮かぶはずだ。歴史は描き出された。この歴史から何を学ぶか、愚者になるか賢者になるかは、わたし達次第だ。
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カラー写真とともに、12のウイルスの実態を人気サイエンスライターのカール・ジンマーが紹介する。「半世紀近くサイエンスの本を読んできたのだが、本書を読んではじめて知ったこともある」という成毛眞のレビューはこちら。
『エイズの起源』の訳者である、長崎大学熱帯医学研究所・国際保健分野主任教授の山本太郎氏による、感染症と人類の歴史の関わりを解説する一冊。人類は感染症とどのように闘い、共生してきたのかを探る。
世界中で読み続けられている『世界史』でお馴染みのマクニールが、疫病という視点から世界史を見つめなおした一冊。