「数学なんて勉強する人たちは、いったい何者なのだろう。」ノンフィクションの中でも、私が挫折した本数ナンバーワンは数学本である。目に見えない概念にめっぽう弱いため、数式に拒否反応が出てしまう。しかし、私のこの意見に「同感!」と思った人にこそ、是非とも読んでもらいたい一冊だ。
著者であるエドワード・フレンケル氏が数学者として自分を見出したのは、石油ガス研究所(日本でいうところの工業大学)に入学して間もないころだった。学校でもっとも尊敬される教授が声をかけてきた。「数学の問題を解いてみたいと思わないかね。」
与えられた問題は「ブレイド(組み紐)群」といって、「世界中の誰ひとりとして、まだ手に入れていないもの」であったにもかかわらず、誰も予期していなかった別の抜け道を発見し、著者は不意に答えを得ることになる。以下の文は、「わたしが数学者になった瞬間のこと」として興奮を隠せない様子が伝わってくる。
ところが突如として、まるで黒魔術でも使ったかのように、すべてが明らかになった。一挙にジグゾーパズルが組み上がり、美しくエレガントな絵の全貌が現れたのだ。あの瞬間のことを、わたしはけっして忘れないだろう。あの経験は永遠に、わたしの宝物であり続けるだろう。突如として、信じられないほどの高みに立ったような感覚だった。眠れずに苦しんだ夜のすべてが、これで報われたと思った。
しかし、そこまで順風満帆に数学を勉強出来たわけではない。ユダヤ人を父として旧ソ連に生まれた著者は、反ユダヤ主義の影響を大きく受けることになる。モスクワ大学の入学試験では、全問正解したにもかかわらず不合格となった。5時間近くに及んだ不公正で差別的で過酷な試験は、まだ19歳の少年の夢を完膚なきまで叩き潰したのだ。
無事大学を卒業出来たとしても、ユダヤ人は大学院に進める見込みはない。そのような逆境にも負けず、純粋数学の研究を続けた結果、学部生最後の年には、ハーバード大学の客員教授として招聘されることになる。初めてのアメリカではスーパーマーケットで品数の多さに圧倒されたとか・・・。劇的なアメリカデビューを果たした彼はまだ21歳だ。
著者の数学者としての運命を決定づけた「ラングランズ・プログラム」は、まさに数学の大統一という壮大なテーマである。幾何学や量子物理学にいたるまで、まったく違うと思われていた分野に架け橋をかけ、「数学の大きな絵」を描くことがこのプログラムの主旨だ。著者が初めて数学者になった時の経験と同じような、ある問題を別の領域の方法を用いて解くということが可能になる。
「数学には、遠く離れた大陸のような相異なる領域があり、それらのあいだに不思議なつながりがある。われわれは大陸をまたにかけて旅をしながら、そのつながりを調べていく。」
果たして、現代数学の概念を私のような文系人間が理解出来るのだろうか。本書を読む1周目、数学の単語についていくのに精一杯であった。「アーベル群」「ガロア群」「ゲージ理論」「三次方程式」「志村−谷山−ヴェイユ予想」・・・・。でも、最後まで読み通せるのは、著者が文章に込めた情熱があるからだ。著者自身の経験について語ることで、読者の興味を反らさない一方、「現代数学とはどのようなものか」を一生懸命向き合って対話してくれるため、私も2周目、3周目と、丁寧に向き合わずにはいられない。
さらに、学部時代や、その後ハーバード大学の客員教授としての日々の中での感情が、非常に若々しくて共感出来る。自分の勉強スタイルを得たときの手応え(関連資料を片っ端から読みふける)、有名な先生と語り合った時の興奮、新しいセミナーに参加したとき感じた違和感など、とても素直に表現されている。その素直さが、読者を明るい気持ちにさせてくれるのだ。
今日、自分でも学生を教えるようになってみて、ボーリャ(そしてその前は、エフゲニー・エフゲニエヴィチとフックスが)わたしのために何をやってくれたのかが理解できるようになった。教師になるとは、なんと難しいことなのだろう!(中略)しかし、学生たちをどちらの方向に導くか、どうやって決断すればよいのだろう? 助け舟を出すのか? どの時点で、深い溝に突き落として、自力で泳ぐことを学ばせるべきなのか? 教育は、ひとつの芸術である。人に教える方法を、あなたに教えられる者はいない。
著者が学生を教える立場について書いた文章が忘れられない。きっと著者が今まで受けて来た素晴らしい教育を、本書を通して私たちに施してくれているのだろう。それは著者にとって、恩師たちへの恩返しのかたちなのかもしれない。現代数学、教育、学問と向き合う姿勢、本書が私たちに教えてくれることはあまりにも多い。