切り裂きジャックというシリアルキラーが存在した。127年前のイギリスに。この殺人犯の呼び名は映画や文学作品といった大衆娯楽の中にたびたび登場する。世界的に最も有名な殺人犯と言っても過言ではないだろう。しかし、自らの記憶を手繰り寄せてみると、この殺人犯が127年前にどのような殺人事件を起こしたか、明確に説明できるような知識が何一つ無いことに気づく。私に限らず、そのような人は多いのではないだろうか。
イギリス人である本書の著者ラッセル・エドワーズも若い頃は、この殺人事件について何も知らなかったという。本書は切り裂きジャックという存在に憑りつかれた一人の企業家が、被害者の物とされるショールを手に入れ、数々の困難を乗り越えながら、科学者と協力しDNA鑑定を行いショールの由来と切り裂きジャックの正体をつきとめようとした日々を、自身で記録した回想禄だ。
当時のイースト・エンド、ホワイトチャペルを震撼させた一連の殺人事件は1888年の4月から始まる。娼婦7人が次々と切り刻まれ殺された。このうち最初の2件の殺人は当時から、後に「切り裂きジャック」と呼ばれる連続殺人犯とは別の事件と考えられている。現在でも研究者の多くの見解は当時と変わらない。3件目からの7件目までの事件を「公式の5件」としている。ただし著者は、2件目の犯行は切り裂きジャックのものではないかと独自の見解を本書で述べている。
シリアルキラーの例に漏れず、この犯人もその犯行をエスカレートさせていく。公式の5件の最初の被害者メアリー・アン・ニコルズ(42歳)は喉を2度切り裂かれ、みぞおちから足の付け根まで、ぎざぎざに切り刻まれ、性器にも刃物による刺し傷があつたという。ただし、殺人犯は絞殺か首を絞め、意識を失わせた後に体を切り刻んだようだ。これはこの犯人の共通する手口だ。この「慣らし殺人」ともいえる殺人を終えた後、犯人は死体解体を行い始める。体中を切り刻み、内臓を引出し、部位ごとにまとめて現場に置く。さらにその一部を持ち帰るようになる。しかも、この様な解剖を5件の内、4件は公共の場所で行っているのだ。その鮮やかな手並み故に当時から医療関係者が犯人ではないかという憶測を呼ぶことにもなる。
劇場型犯罪の始まりだ。当時、急速に発展したメディアの影響もありロンドン中の耳目がこの殺人事件に集中する。本書の主要な趣旨ではないが、犯罪と報道という観点からも切り裂きジャックの事件を見る事が出来る。当時、どのような報道合戦が繰り広げられたかを、著者は丹念に追っている。ちなみに事件が起きた当時、犯人は「切り裂きジャック」ではなく「レザーエプロン」と呼ばれていたという。犯人のレザーエプロンはユダヤ人の靴職人だという噂が流れていた。
当時、ロシアの迫害を逃れるために多くのユダヤ人がロンドンに流入し、その多くが貧困街のイースト・エンド界隈に住み付き、社会問題化していた。彼らは貧しく、わずかな金銭で辛い労働にも耐えたため、もともと住んでいたイギリス人の貧困者から仕事を奪っていた。イースト・エンド界隈には大挙して押し寄せる、ユダヤ人への増悪が高まっていた。世論は犯人をユダヤ人に仕立てあげようとする気分に満ちていた。それを、マスコミが煽り助長していたのだ。
しかし、レザーエプロンの名は廃れる。きっかけは新聞社届いた一通の手紙だ。当時、犯人を名乗る手紙が、警察やマスコミに多数届いていた。その一通に「切り裂きジャック」と署名してあり、これが爆発的に広がる。しかし、その後に主要マスコミに次々と送られてきた「切り裂きジャッック」を名乗る手紙は、マスコミの自作自演であったことが、後に判明しているという。
著者は被害者たちにもスポットライトを当てている。歴史上の無名な人々は、時としてただの記号のように扱われてしまいがちだ。しかし、彼女たちにも間違いなく人生があったのだ。著者はなぜ彼女たちが転落の道を歩んだのかを、少ない記録を読み込み、現代の私たちの前に再現させている。ビクトリア朝時代の貧困問題、アルコール中毒、結婚の失敗、あるいは夫に先立たれた貧しい未亡人へのセーフーティーネットの欠如。様々な問題が浮き彫りになる。一晩4ペンスの簡易宿のベッド代を稼ぐため、彼女たちはたった4ペンスのはした金で売春をしていたという。
実は著者は今でこそ企業家として成功しているが、青年の頃に転落の人生を歩み、一時期は路上生活者だったという。ほんの些細なボタンのかけ違いで、人生はあっという間に転落していくという事を、身を持って体験しているのだ。
さて件のショールだ。本書の注目は科学的根拠に基づき犯人を追いつめるものだ。本書のレビューであるならば、ここは念を入れて書き込みたいのだが、この最も重要なミステリーの部分のネタばれを起こしてしまいかねないので、あえて簡略的に記すことにする。4件目の殺害現場に駆け付けた警察官が持ち帰り、一族が保管していたこのショールは間違いなく本物であった。
実はこのショールについては、専門家の間でも偽物とする意見が強かったのだ。しかし、ショールに付いていた血液からDNAを抽出。そこからミトコンドリアDNAの増幅に成功し、キャサリン・エドウズの女系の子孫カレンのミトコンドリアDNAと比較した結果、2つのmtDNAが一致したのだ。このショールの血痕とカレンのmtDNAには「グローバル・プライベート・ミューテーション」と呼ばれる配列変化があり、これはある特定の家系や集団でしか見られない遺伝子変異だという。カレンとショールの血痕から見つかった変異の保有率はわずか0・000003506、なんと世界人口の29万分の1の人しか持たない物であるという。
そしてショールにはもう一つ、精液とみられるシミが残っていた。そこから精液のDNA抽出へと進む。著者は調査の過程で、スコットランドヤードが当時、犯人を特定していたことを知る。切り裂きジャックの犯行を唯一目撃した人物が面通しで犯人を特定したにもかかわらず、まぜか裁判での証言を拒否したのだ。このため男を逮捕し起訴することができなかったというのだ。
著者はスコットランドヤードが犯人と特定した人物の子孫を探し当て、そのDNAを採取することにも成功する。精液のmtDNAとこの男の子孫のmtDNAは一致する。スコットランドヤードの公式見解は正しかった。犯人はこの男なのだ!
後半はミステリー小説を読むような感覚で貪るように文字を追った。だが、このミステリーにピリオードが打たれる日は無いだろう。だれもそれを望んでいないのではないか。謎は、永遠に謎のままに。私たちはそれを望んでいるのかもしれない、犯人を特定したという興奮の中でも、フッとこのような思いにかられながら本を閉じた。
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