なにかにつけて管理・監督されている面が多いと思います。(中略)宿題も全部提出しないといけませんでした。もっとも、自分の頭で考えたり判断したりする必要のある課題はありませんでしたが。
これは、自由の国アメリカでの留学体験を振り返ったフィンランド人学生の言葉である。ある調査によると、世界各国からアメリカへの交換留学生の6割がアメリカの親のほうが自国の親たちよりも子供に与える自由が少ないと感じているという。iPadなどの最新機器を積極的に採用し、創造性・考える力を育成するためにディベートやプレゼンテーションの機会をふんだんに与えられているというアメリカの生徒を取り巻く教育環境で、自分の頭で考える機会が少ないとはどういうことだろうか。
アメリカの産業界は、学生とは異なる観点から、自国の教育のあり方に疑問を抱いている。オクラホマで食品加工業を営むバーマ社は、新工場の建設地をポーランドに決めた。安い労働力を求めての決断ではない。地元では、低職能の流れ作業員ですら採用するのが不可能だったのだ。バーマ社によると、地元出身の求職者には思考伝達能力はおろか、読み書きや基礎的数学すら備えていない者が多かったという。工場作業員であっても批判的思考力、問題解決能力が求められる時代にも関わらず、アメリカの教育はそのような人材を十分には生み出せていないという。そして、ポーランドにはそのような人材が豊富にいるという。
単純労働の多くは次々と機械やロボットに置き換わり、人間に求められる業務はより高度化している。この30年におけるコンビニ店員の業務の変化を考えてみると、その複雑化の著しさに気がつく。レジ打ちや商品陳列に加えて、宅配便の手配、場合によってはコピー機などの電子機器の操作方法を顧客に愛想よく指導しなければならないのだ。本書は、この激変する時代を生き抜く能力を身につけさせるために、世界各国がどのように教育に取り組んでいるかを教えてくれる。
ジャーナリストである著者は、統計、教育制度の分析や教育関係者へのインタビューという従来の手法に加えて、「現地調査員」を存分に活用することで類書とは異なる深さと実態感を持って、世界の教育現場を伝えることに成功している。統計数字には現れない子供の思いが、本書には確かに描き出されているのだ。この「現地調査員」とは、賢い生徒を生み出すことに成功している国々へ1年間の交換留学に旅立つ10代のアメリカ人3人である。
この調査員3名のフィンランド、韓国、そしてポーランドでの体験とアメリカの対比が本書の中心となる。それぞれの人生が実にリアルに描写されており、つい自分の学生時代を振り返ってしまうほど。とはいえ、本書はただの留学体験記にとどまるものではない。著者も幾度も各国を訪れ、調査員の友達や家族へのインタビューを実施し、各地の教育大臣や教師などと意見を交わし合うことで、議論に広がりを持たせている。ミクロの視点とマクロの視点を巧みに行き来しながら、子供たちが本当に求めているものはなにか、理想的な教育とは何かという答えのない問いに答えるためのヒントが浮かび上がってくる。
調査員の行き先である3ヶ国はそれぞれ、PISA(国際的な15歳の生徒の学習到達度調査)の結果が示す「成績の良い3パターン」の典型とされる。過度な競争・干渉なしに子供が高度な思考力を身につけたユートピア型のフィンランド、深夜まで不安に駆られながらも勉強を続ける圧力鍋型の韓国、子供の貧困が問題になっているにもかかわらず成績が改善している変容型のポーランド。フィンランドはいかにして誰もが羨む状態に至ったのか、韓国の子供たちは熱心な親に強制されているだけなのか、ポーランドを変革した元化学者の教育大臣は何をしたのか。子供たちの生の声とともに、その現実を知ることができる。
フィンランドに留学した調査員キムは、アメリカの学生とフィンランドの学生の違いに気がついた。フィンランドの女子高生だって授業中にスマホをいじるし、パーティーで夜更かしをするのだが、フィンランドでは皆が学校や勉強にちゃんと向き合っているように感じられたのだ。「どうしてみんな、そんなにちゃんとしてるの?」と尋ねたキムに、フィンランドの女子高生は不思議そうにこう答えた。
やらないと卒業できないし、大学行けないし、いい仕事にもつけないよね
勉強しなければならない理由はアメリカも同じなのに、なぜこんなに生徒の意識が違うのか。著者は世界を見て回り、教育費の多さや教育政策の在り方よりも、「厳格さに対する信念」を持ち、「学校の目的についても意思統一」されていることが重要であることに気がついた。単純な話だが、勉強ができる国というのは、勉強のことを真剣に考え、高いレベルを目標に厳格に努力している国なのだ。「結果よりも努力を評価する」、「落第させたら可愛そう」という姿勢は、真剣に勉強に向き合い、困難を乗り越える喜びを子供から奪っているのかもしれない。アメリカの学校に厳格さを持ち込むことで、生徒が変化していく事例も本書で紹介されている。
厳格な雰囲気の醸成に重要な役割を果たすのが教師の存在である。フィンランドで教員課程に進むことは、アメリカで医科大学に進むのと同じくらい名誉なことなのだという。一方アメリカでは教員となるハードルが非常に低く、需要の2.5倍の教員を毎年生み出している。当然教師の学力は低い(また、各州でその基準はばらばらだ)。著者はアメリカの現状を、「わが国の教育界は、受けてきた教育がどれだけ乏しい者にもとりあえず教育に携わる機会を与えている」のだと嘆く。
フィンランドとて問題がないわけではない。高学力を誇る韓国も、若年層の高い自殺率などもあり、満足という状況とは程遠い。完璧な人間などいないように、完璧な教育など存在しないのだろう。それでも本書で多様な教育に触れると、教育の在り方は変えることが可能であり、より良い教育というものがありえるのだと思えてくる。ポーランドは、厳格さの導入・説明責任の明確化・能力別編成の見直しによって短期間で教育列強国入りした。著者は、他国で機能している仕組みを自国に採用する際には、その仕組みがどのような経緯や土台を基にしているかを理解する必要があると注意を促す。教師の質が十分高められていない状態で、フィンランドを真似て教師の裁量を高めても意味が無い。
PISAという1つの目安ができたとはいえ、PISAの成績を上げることが教育の最終目標とはなりえない。教育の成果を測ることは困難であるが、あらゆるものに短期的成果が求められる昨今、教育の存在意義にも疑問が投げかけられ始めている。日本でも大学のあり方の大変革を求める提言が大きな反響を呼び、アメリカには大学に行かないことを条件に若者に出資する起業家もいる。どのような教育を望むのか、その実現のためにはどのような教育システムが必要なのか、一から考え直すタイミングが訪れている。「詰め込み」とも「ゆとり」とも違うものを探さなければならない。大人たちが真剣に教育に向かわないのであれば、子供たちが真剣に教育に向き合うことはない。
大学に行かないことを条件に資金を提供する起業家とは、この本の著者ピーター・ティールである。西洋哲学に根ざした深い考察から、ゼロからイチを生み出すための方法、その意味を解説していく。現代のアメリカは、教育界にも曖昧な楽観主義が蔓延しているのかもしれない。内藤順のレビューはこちら。
高校生による科学のオリンピックとも呼ばれる、インテル国際学生科学フェア。そこで発表される自由研究は、想像を絶するようにハイレベルである。科学の楽しさ、子供の可能性に感動必死。成毛眞と出場者の田中里桜氏の文庫版巻末特別対談はこちら。成毛眞のレビューはこちら。
民間企業から公立大学のキャリア支援センターへと職を変えた著者が経験した、信じられないような大学の現状が描き出される。読み進めるほどに、その実態に空恐ろしくなる。