時代とともに言葉の意味が変わるということはよくあることだし、そうあってしかるべきだとも思う。だが、最近の言葉における概念の変化はなかなか激しいものがあり、面食らうことも多い。
たとえば「キュレーション」という言葉。つい2、3年前までは特定の分野に精通する人たちが情報発信をする際の作法のようなものを指していたと思う。ところが最近ではニュース・キュレーションサービスに代表されるように、アルゴリズムによってフィルタリングされた情報を受信することを意味する。そこからは、「人からテクノロジーへ」「情報の発信者から受信者へ」と主体が移り変わっていく様が見てとれる。
本書の標題にある「コンテキスト」という言葉も、同種の移行期的混乱を孕むものと考える。コンテキストとは、直訳すると「前後の事情」「背景」という意味。だが、これまで多く語られてきたコンテキストという言葉は、マーケティング業界やPR業界によって培われてきた概念であり、情報発信者の論理として語られてきた側面を持つ。
それはコンテンツに対応する存在としての、コンテキストであった。たとえば学問や芸術といった高尚なものを対象とする際に、より身近な話題にされるようコンテキストを付加するのである。STAP細胞をリケジョや割烹着を切り口にコミュニケーションすることや、全盲の作曲家というストーリー仕立てで展開することも、その一例と言えるだろう。
コンテキストこそが情報拡散装置となり、ビジネスを生み出す。そういった意味で2014年はコンテキストが一人歩きすることによる受難の年であったとも言える。
このように概念自体がターニングポイントを迎える中、これから「コンテキスト」はどのように変わっていくのか、それをよく理解できるのが本書『コンテキストの時代』である。著者の一人、ロバート・スコーブルはブログ黎明期からITを牽引してきたジャーナリスト。四六時中Googleグラスをかけていることでもよく知られ、この領域を語るのに申し分のない人物と言えるだろう。
発信側が仕掛けるものから、受信側が享受するものへ。コンテキストという言葉が今まさに変化している背景には、むろんテクノロジーの進化がある。それを支えているのがモバイル、ソーシャルメディア、ビッグデータ、センサーという5つのフォースだ。
その影響はコミュニケーション領域のみに留まらず、体験というフィールドにも及び始めている。たとえば本書の冒頭では、NFLの強豪チーム・ペイトリオッツがコンテキストテクノロジーによってスタジアムでの体験を改善している事例が紹介されている。
年間チケットの購入者は、テレビ中継よりも詳しい試合動画をスタジアム内でスマホで見られる。座席に座ったままでモバイルデバイスから飲み物や食べ物を注文できる。また、どのトイレの行列が一番短いかも教えてもらえる。この至れり尽くせりの予測システムがあらゆる方面のロスを無くし、快適な体験が提供されているのだという。
現在、自動車の分野で起こっている衝突自動回避システムや盗難防止システムの普及もコンテキストという概念で読み解くことが出来る。今や車はコンテキストを理解し、記録することによって、さまざまな危険や不都合から乗員を守ることが出来るのだ。また、自動運転システムという未来も、コンテキストを統合することによって生まれてくる未来と言えるだろう。
本書で紹介されるケーススタディの中でも特に印象深かったのが、都市の変化についてである。新都会派と呼ばれる人びとが、コンテキスト・テクノロジーに富む都会生活へ回帰してきているのだという。
芝生に囲まれた戸建住宅を選ぶ代わりに、より刺激の強い都会的環境を強く求める。自動車は持たず、地下鉄か自転車で移動する。自分たちの住む都市の、安全な道路、公害の減少、透明な政府、地域活動の積極的に推進するなど、ライフスタイルにまで影響を与えているのが特徴である。オープン・クラウドと3Dモデリングによる的確な予測システムがそれらを支えているほか、コンテキスト型都市スタートアップなるものも生まれてきているそうだ。
テクノロジーの進化、それ自体は単一方向への合理化に過ぎない。それが、コンテキストという一つの概念に結集することによって、人格のようなものが生み出されていることこそ驚くべきポイントであるだろう。適切な場所、適切なタイミングを突き詰めるによって「気の利く奴」「空気の読める奴」が無数に生産され、その恩恵を受けた人間はさらに創造的な方向へと進化する。
本書で紹介されている内容は決して未来の話ではなく、今まさにアメリカで起きている現実である。合理化が生み出すエキサイティングな世界が既に始まっていることを、様々なケースとともに示している。やはり思想なきテクノロジーに未来は描けない。それをどこまでもポジティブに実感させてくれる一冊だ。
この本、面白いです。
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