世界三大瀑布の1つ、イグアス滝。それをブラジル側から擁するパラナ州の州都、標高900mの高原に位置する人口180万人の都市クリチバは、都市計画の成功例として世界的に有名な街だ。先導した市長のレルネルは1971年の就任当時33歳、市のマスタープランのコンペで最優秀賞をとった建築家であった。クリチバは、「醜くて、おどおどして、魅力がなく、そして貧しかった」。
レルネル市政の特徴は、環境を重視した施策だ。中央の幹線道路が歩行者専用道路に変えられて花が植えられる一方、通過タイミングに合わせて信号が変わるバス専用の高速レーンが作られ、公共交通機関が整備された。全市域の18%が緑地になっており、街路樹を除いた市民1人あたりの緑地面積は49㎡(東京都は4㎡以下)である。
そのようなクリチバを著者が初めて知ったのは1990年代、留学中に頻繁に取り上げられた時であった。アメリカの都市計画を学ぼうと渡米したにもかかわらず、ブラジルの都市ばかりがモデル都市として紹介されている。「クリチバを知らずして都市計画を語るべからず」とまで言う教授もいた。こんなことなら、ブラジルに行けばよかった。その後、現地を訪れ調査していく中で、教わったことが大げさではないことを知り、そして、中村矗(ひとし)という日本人に出会う。「でも、聞かれなかったから」と最初は多くを語らなかった彼こそが、後に州知事になったレルネルが「パラナ州の自然観光地はほとんど中村ひとしがつくりましたが、このイグアスの滝だけは違います」と述べた本当の懐刀であり、クリチバの緑地空間のほとんどを設計していたのだ。
中村さんは太平洋戦争中の昭和19年に生まれ、神戸で育った。小学校時代の先生の評価は「ひとし君は優しすぎる。しかし、えげつない人間が多いご時世なので、ひとし君みたいに優しい人間がいてもいいでしょう」というものであった。部活で尊敬していた先輩がいる、という理由で大阪府立大に進学し、外でなにかするのが好きだから、という理由で農学部造園学科を選んだ。所属した海外農業研究会が、ブラジル渡航のきっかけになった。ひどい状況のブラジルの農業を改善する学校を開き、広大な土地を開墾し、人類の食糧難を救いたい。学歴偏重の日本で就職するより、ゼロからチャレンジしたかった。両親は、もちろん大反対である。せっかく大学院まで出たのに、白紙に撤回するようなことをなぜするのか。「ブラジルまで行かなくても、日本ですることがあるだろう」。婚約者の父親には「なにがブラジルだ。一人で勝手に行って毒蛇に咬まれて死んでしまえ」と言われた。修士課程を卒業後、2年間アルバイトをして渡航費用を貯め、勘当同然で神戸港から出発したのは1970年のことである。いわゆる移民船のアルゼンチナ丸で数か月、ブラジルに着いた時には、ポケットに8ドルしかなかった。
待っていたのは、試行錯誤の連続であった。目的にしていた実験農場はすぐに倒産してしまい、たまたま通っていたポルトガル語の先生の交渉のおかげで、なんとか市の契約職員になった。最低賃金での雇用だ。市役所に入るために、ブラジルに来たのか。母は「自分勝手に行ったものの苦労しているかと思うと堪らない気持ちです」と書いた。ブラジル行きは失敗だったと、彼自身も周囲も思っていた。追って奥さんが渡航してきた直後には、交通事故で10ヵ所を骨折して3か月入院し、一時は記憶があいまいになってしまった。奥さんも、言葉が通じない国での看病疲れで入院した。奥さんは、もうこれ以上悪いこともないだろうと、将来を前向きに考えた。
本書は、このような状況から、クリチバ市の公園部長、環境局長になり、パラナ州の環境局長になっていった中村さんの仕事を追う。印象深いのは、中村さんと周囲の人たちの意志の強さ、楽観性と実行力だ。はじめはブラジルの国籍すらなく、どの業界のシンジケートにも属していない非正規職員の中村さんを、レルネル市長は徹底的に登用した。中村さんは、足りない予算・極めて短い期間で、次々に施策を実行していった。
中村さんは、多くの公園を「設計図なし」で作った。現場に出向き、イメージを膨らませる。そして、現場の作業員に指示して即興的に造成していく。中村さんは、設計図の悪いところは、設計図にとって邪魔になる木が切られてしまうことだという。既存のルールに従わず現場を重視したのは公園作りだけではない。芝の維持を羊に任せて予算を削減するアイデアや、スラムで発生するごみを現地住民のリーダーに収集してもらい、それを買い取る「ごみ買いプログラム」、大多数の人が絶対に不可能と言った「ブラジル人にゴミを分別させる」仕組みを達成した、大人ではなく、小学生に分別の大切さを教えることに集中する「ごみとごみでないごみプログラム」、学校に行かないスラムの子供たちをターゲットにした、自らも母親である現地住民が食事を与えて子供を遊ばせる施設「寺子屋プログラム」など、多くのアイデアが次々に中村から提案され、実行された。政治的圧力を受けたり脅迫されたりしたが、市長はいつも中村さんを守り、中村さんは、時にはスラムに単身乗り入れ、時にはヘリコプターで反対派を乗り越えて保存区の酋長と話をつけ、働き続けた。
僕でも怖いと思うことはあるし、臆病なところもある。しかし、レルネルさんの前向きで肯定的な考え方、とにかくやらせたらいいじゃないか、という姿勢によって、僕はいろいろ自由にすることができた。下手を打ったら、あとで尻拭いすることまで考えてくれていた。
プロジェクトは3ページの企画書でまとめられてしまうような簡単なものでいい。しかし、うまくいくのはそれを誰がどうやってやるか、ということである。
ブラジルに行った後も、中村さんは優しいままだ。著者は、中村さんが、人を面白がる能力と、暗いものから明るいものを見出す能力に傑出していると述べる。中村さんの母親は、中村ほどクリチバを愛している人はいないと言う。奥さんは、中村さんは「人の面倒ばかり見ていた」という。中村さんがスラムに行くと、多くの住民が抱きついてきたり握手を求めに来る。中村さんは、クリチバが成功したのは、人々が「自分の街だ」という意識を持った結果だと言う。
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