赤提灯を「ニッポンの文化」と声高に叫ぶ男がいる。男は自分をこう呼ぶ。「赤提灯国粋主義者」。昭和51年から延べ20年以上、日本で暮らし続けたマイク・モラスキー早稲田大学教授こそがその男だ。
日本経済新聞の夕刊に連載を持つなど少しずつ露出も増え、もはや酒飲みの間でモラスキー先生を知らない人間などモグリである。ただ、これまでは少しばかり値が張る本しか著していなかったためか一般的な認知度は低かった。前著『ひとり歩き』は2484円、その前に刊行した『呑めば都』は2268円である。
居酒屋論だけに読者は酒飲みだと思うのだが、この値付けでは読者に「馬鹿野郎!2000円もあったらホッピー、何杯飲めるのだ!」と突っ込まれるのは間違いなかったはずだ。モラスキー先生の一ファンとしては歯がゆい日々が続いたのだがついに3ケタ台で先生の教えを請える日が来た。光文社としては創業以来の偉業ではなかろうか。個人的には1500円くらい投じても個良かったりするが。とにもかくにも、新書を著したことで、太田和彦、吉田類の二強に割って入り、居酒屋論客の勢力図が塗り替えられることは間違いないはずである。
モラスキー先生の居酒屋論の最大の特徴と言えば、日本とアメリカの両国のすき間で生きてきたと自ら語っているように内外の視点を持つことである。そのことにより酒場の日常から我々が見逃しそうな体験を切り出す。とはいえ、本書では「青い目で見た居酒屋論」として受け止められることを拒否する。「青い目で見た居酒屋論」でなければ単なる酔っぱらいの居酒屋論であるのだが、それこそモラスキー先生の本望かもしれない。一日8件はしご酒をしたり、電車の中で酔っぱらいに絡まれても毅然と自らも酔っぱらいとして応戦したりする姿はもはや神々しい。
本書は居酒屋のガイドブックの側面を持ちながらも、文化史を専門とする大学教授だけにこれまでの著書同様に居酒屋を「場」として捉える姿は変わらない。多くの店が実名で登場するが、細かい肴や酒の紹介はほとんどない。住所すら掲載されていない。あくまでも地域や業態別に居酒屋の細かい定義をしつつ、実在する店舗を挙げ、店の主人や常連がつくり出す時間の流れや空間の業態ごとの違いを提示する。そのことにより、読者は想像力をかき立てられ、紹介される居酒屋への興味が嫌でも沸く。住所などインターネットで検索すればわかるわけだし、これからの居酒屋ガイドブックのあるべき姿のひとつではないだろうか。
唸ってしまう指摘も少なくない。例えば、モラスキー先生は庶民的な安い酒場であればあるほど客に共有される側面が多いと指摘する。
カウンターには、濡れた布きんがおいてあり、周辺の客がカウンターを少し拭くのに共有するのみならず、共通の手拭きとして使うこともある。〈中略〉言ってみれば、おしぼりまで周辺の客と共有するような状態だ
トイレは男女別どころか、〈中略〉共同便所を周辺の飲食店の客たち共有する場合もよくある
朝っぱらから汚い話だが、占有スペースが小さく、共有する物が多いからこそ、客と客の間にある垣根が低く、予想外に会話が始まったり、想定しない出会いに恵まれたりすることもめずらしくないわけだ。「つまみの味も濃いかもしれないが、人間関係も濃い場所である」との結論には、一瞬、「おおおお」と思ったが、別に珍しいことを言っているわけではない。ただ、アルコールで脳みそが溶けてしまっている私を含めた多くの酒飲みは「そうか。立ち飲み屋で隣のオッサンと話が弾んだのは汚い布きんを共有していたからか」と頷いてしまう。過去の痛飲歴を振り返りながら、合点がいく指摘ばかりで、感涙しっぱなしの全244ページになるはずだ。
驚愕すべきはフットワークの軽さ。北から南まで居酒屋の店名が次々に出てくる。単なる飲み歩きではなく、土地ごとの魅力を掘り下げながら居酒屋論を展開する。そこには地場の赤提灯を愛し、チェーン店を憎む赤提灯国粋主義者の矜持が見え隠れする。
モラスキー先生が現在懸念するのはインターネットの普及による赤提灯の変容だ。せっかく見つけたやすらぎの場である居場所が、情報サイトの浸透で、誰もがすぐに行ける、行くこと自体が目的になりかねない状況にあるという。実際、すでにそうした現象は日常のあらゆるところで起きているが、赤提灯にまでその波が押し寄せることで酒場の持つ地域性が喪失されることを憂う。インターネット社会における新たな居酒屋ガイドブックである本書がネットの赤提灯への影響を示唆するとは皮肉でもあるが。果たして、日本の赤提灯は今後どのような「場」になるのか。これからの居酒屋ガイドブックがどうなるのかも含めて考えさせられる一冊だ。