シリコンバレーにあるスタートアップ養成スクールの3ヶ月を、密着して追いかけたドキュメント。本書の面白さを知るためには、「はじめに」の章で書かれているわずか10ページほどの説明を読むだけで十分だ。
このスタートアップ養成スクールを運営しているのは、ベンチャーファンド「Yコンビネーター(YC)」。その中心人物が、元起業家でプログラマーのポール・グレアムだ。
YCは数10社ものソフトウェア・スタートアップに同時に投資を行う。一方それぞれの会社は、少額の出資を受ける見返りに株式の7%をYCに与える。だが彼らが投資をする際には、一つの重要な条件が出されるという。
まずチームは、3ヶ月間にわたってシリコンバレーに引っ越して来なければならない。そしてプロダクトの開発を続けながら、グレアムをはじめとするパートナーたちの助言を受けることになる。また毎週ゲストを招いた夕食会に出席し、最後にはデモ・デーと呼ばれるイベントに参加することにもなるのだ。
このデモ・デーとは、数百人もの有力投資家の前でプレゼンテーションを行う機会が与えられることを指す。つまりYCは、スタートアップという未来のプラットフォームを生み出すためのプラットフォームなのである。
YC発のスタートアップの中には、既に大成功を収めたチームもいくつか存在する。代表的なのは、なんといってもDropbox。また、戸建・マンションの持ち主が予備の部屋を旅行者に貸し出すためのオンライン仲介サービス、AirbnbもYCの卒業生だ。
著者は2011年の夏、YC内に常駐し、応募者の選考過程からスクールの内容まで逐一記録することが許された唯一の人物である。YCの中で起きることを漏れなく観察し、興奮をそのままに伝えてくれている。
ここまで読んだら、もう後戻りはできない。頭の中で勝手に映画のオープニングムービー風の音楽が鳴り出して、物語は動き出す。シリコンバレー特有の情熱とスピード感が、あっという間にラストシーンまで誘ってくれるだろう。
今や流行語のように飛び交う「スタートアップ」という単語だが、その定義はポール・グレアムに言わせると以下のようなものになる。
”スタートアップの本質は単に新しい会社だという点にはない。非常に急速に成長する新しいビジネスでなければいけない。スケールできるビジネスでなければスタートアップではない。”
この戦場のような場所に送り込むために、スクールでは厳正なる選考を持って人材が選ばれる。その合格率や、わずか3.2%。過酷な質問によって試されるのは、スタミナ、貧乏、根無し草性、同僚、無知という5つの資質である。
彼らは、そんな資質を兼ね備えるのが25歳という年齢にあると判断している。創業者が学生だと、失敗しても学生に戻れるので真剣味も足りないのだが、25歳にもなると学校に戻るという退路が閉ざされているからだ。
また選考時に見ているのは、ビジネス・プランだけではない。実際に、創業者たちが成功に必要な資質を備えていると思えるなら、アイデアに弱点があっても大目に見ることもあるのだという。シード資金の段階での投資においては、アイデアよりも創業者の人物こそが重要なのだ。そこに、共同創業者がいること、チームの全員がハッカーであることなどの条件も付加される。
そんな厳しい選考をくぐり抜けてきた64組160人の精鋭たちが集う場とは、一体どのようなものなのか?その実態は、実にリベラルなものであった。創業者たちは個性のままに活動し、命令に絶対服従するための儀式・しごき等のブートキャンプ的要素はみじんもない。それもそのはず、ダメな創業者はYCがクビにしなくても、市場が追い出してくれるからだ。
だがそんな事態に陥らぬよう、ポール・グレアムは的確にスタートアップのポイントを指導していく。
”いいか、アイデアを生み出すための3ヶ条だ。1.創業者自身が使いたいサービスであること 2.創業者以外が作り上げるのが難しいサービスであること 3.巨大に成長する可能性を秘めていることに人が気づいていないこと。”
”コードを書いて顧客と話せ、早く出してやり直せ、数字で測れる週間目標を決めて集中しろ。”
”ハッキングが得意で、かつ営業に積極的でなくてはだめだ。われわれが投資する相手は全員ハッキングが得意だ。それは見ればわかる!”
全員が13歳頃からプログラミングを始めたという集団内において、コードの部分ではそれほど差がつかない。コードの外側、つまりオフラインの部分において、市場を、顧客を、数字をいかにハックできるのか、それこそが試されているのだ。そんな熾烈な環境下で彼らは競い合い、そして分かち合う。
このような教えの全てに、シリコンバレーの真髄が詰まっているとも言える。おそらくこの地では、YCで教えられているようなことが、これまでにも暗黙知的に引き継がれてきたのではないかと思う。金持ちとハッカーが行き交う場所での流儀、地場に根ざした”最先端であり続ける”という伝統。それを形式化したYCという存在は、まさにシリコンバレーの中で最もシリコンバレーらしい場所とも言えるだろう。
また本書は、将来性豊かなスタートアップのサービス内容を知るための一冊としても有用である。そのいくつかを紹介してみたい。
ラップミュージックの歌詞を解説するサイト。ユーザーがラップ歌詞への注釈を投稿すると、ラップIQスコアがもらえる。コミュニティ機能を付けること、新分野であるロックに進出することなど、今後の展開への岐路に立たされている。
子供たちがアニメ化されたお話を作れるアプリ。レゴなどの創造的遊びと子供向けTVゲームを合わせた新カテゴリー。iPad上で動くフィギュアの大きさを変えたり、歩かせたりすることができ、バイラル化することも可能。どこの親でも、自分の子供のしたことを自慢するのが好きであるという点がミソ。
科学実験のためのオンライン・マーケットプレイス。今は大学内で行われていることの多くが外注に出されているのが実情。そこに効果的なマーケットプレイスを作って、現在は不可能な全大学を横断する実験運営ができるようにするというもの。このプラットフォームの存在を知ってもらうために、ポスドクに営業をさせているという点もユニーク。
実際に公開されたサイトだけを見ていると、有能な起業家たちがクールに仕事をして出来上がったかのようにも思える。だが、その舞台裏は水面下で必死にもがく白鳥である。アイデアに行き詰まり、共同創業者に逃げられ、ピボットを余儀なくされ、プレゼンも上手くいかない。本書のもう一つの見所は、そんな失敗や試練を繰り返し、青春とビジネスとが共存した起業家たちの群像劇だ。
本書の読後感は、まるで大人になってから見る「夏の高校野球」のようなものであった。かつて年上のお兄さんたちが活躍していた甲子園では、いつの間にか年下の選手たちがグラウンドで躍動している。もはや観客席から見るしかないことを観念しながらも、その全力プレイについ心を踊らせ、胸を打たれてしまう。
その一挙一動から目を離すことの出来ない、手に汗握るビジネス書だ。問題は、このまま観客席に座っていて良いのかということだけである…
かつて美術学校に通っていたこともあるポール・グレアムのエッセイ集。
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スタートアップ関連の、あまりにも有名な2冊。