どうもお正月気分が抜けない。そんな気持ちのまま、思わず手にとったのが本書だ。帯には「平日の真っ昼間から、温泉入ってひとり飯!?」とある。いじゃないか。今の気分にぴったりだ。
いきなり、こんな文章で始まる。
午後一時すぎ、仕事場でギターを弾いていたら、原稿催促の電話があった。
「すみません。今書いているところで、夜になったら必ず送ります」
書いていない。ボクはウソを言っているのだ。
<中略>
電話を切って、すぐにカバンにタオルと着替えの下着を入れた。
そして、靴を履いて、さっさと仕事場を出た。
電話であんなこと言ってて、ちゃっかり温泉に行くのだ。
温泉だ。銭湯ではない。
〆切日に書き手が温泉に行ってしまう。日本中の編集者が戦慄するに違いない、オソロシイ光景がいきなり展開される。
で、著者の行き先だが、箱根でも草津でもなく、綱島。東横線の大倉山と日吉の間のかつての歓楽街に佇む、「綱島ラジウム温泉」という文字と温泉マークがでかでかと書かれた日帰り温泉施設、綱島温泉東京園である。
「おおっ」と思わず声が漏れる。ここは私の学生時代からすでに、昭和30〜40年代で時が止まったような、違和感アリアリの風情で、印象に残っていたのだ。しかも、それからさらに20年が経っている。
昔のボーリング場のような印象だ。
しかし、入り口のガラスドアは昔の公民館のような印象。
入った右手にモギリのような狭く小さな受付があり、オバチャンがひとり座っている。
ここは昔の映画館のようだ。
印象が次々に変わるが、全部アタマに「昔の」が付く。
「平日の真っ昼間から、温泉入ってひとり飯」とは言っても、さすが、『孤独のグルメ』や『花のズボラ飯』の作者、風光明媚な温泉地の旅館に宿泊して、グルメな「食」を楽しむわけではない。
この東京園に売られている「食」も、実に、らしい。
三色豆。
栗羊羹。
紅甘夏。
干し芋。
生姜糖。
ニンニクの醤油漬け。
しるこサンド。
しるこサンドって……。
大広間ではムード歌謡のカラオケが鳴り響いているが、歌は聞こえない。不審に思ってのぞくと、そこにはカラオケの音楽に合わせて社交ダンスを淡々と踊る年配の男女。
温泉に浸かったのち、そんなオジチャン、オバチャンたちを鑑賞しつつ、この大広間で生ビールと焼鳥2本で500円の「生ビールセット」を味わうのだ。
これで、なんとなく、本書の雰囲気がわかったであろうか。
その他、高井戸温泉に行って回転寿司。麻布黒美水温泉の帰りに焼きそばとほうじ茶、浅草観音温泉(この温泉はオソロシクディープだ。どす黒く変色したバンビさんとか)のあとの牛すじ煮込み、といった感じに、「温泉紀行」は続く。
タクシーで深大寺温泉に行って、深大寺地ビールと天もり蕎麦を食べる、などという、不愉快なまでにウラヤマシイ章もあり、日帰り温泉施設といえども、すぐにでも行きたい衝動に駆られる。「戸越銀座温泉と鴨クレソン」なんていうのも実にそそられるではないか。
肝心の、温泉に浸かっている際の描写だが、これがまた、なかなかにすばらしい。
著者は「サル山のサルを見るのが好きだ」というが、いわば珍妙な動物群を観察するような目で、素っ裸の人間たちの所作や行動、そして普段見ることのできないものの形状などを、楽しく書き記す。
仲のいい、つるハゲと白髪の老人二人組(白髪がつるハゲをすごく好いている感じ)の様子を描写してみたり、ていねいに股間の毛のお手入れをしたのち、ノーパンでウグイス色のジャージを履いて出て行った横山ノック風に禿げたおじいさんの衝撃を語ったり、それぞれの「形状」にしたがって、外国人に「バナナ」やら「わさびの根」やらとアダ名を付けたり、「老人になると睾丸が異様にたれている人と、たれない人がいる」などと観察結果の統計的報告をしたり。別にどうでもいいといえば、どうでもいいのだけれど、なんだかいちいち面白いのだ。
そして、この本のいいところは、なんといっても、読みながら温泉三昧への衝動に駆られたら、それを比較的容易に実現できることだ。草津や箱根の豪華な温泉旅行だと、そうは行かない。あっ、いや、箱根も、この本に載っていた。
久住昌之奮闘執筆中!
ということにして、朝からちゃっかり箱根に行ってきた。
殺されるな、いつか俺
たしかに、と思いつつ読めば、小田急ロマンスカーで、車中生ビールを飲みながらの箱根行きである。編集者たちの殺意はさらに増すことであろう。しかし、その先がさすが久住さんだ。箱根に電車で行った方はご存知だろう。目指すは箱根湯本駅北側に隣接している「かっぱ天国」なのだ。
錆びた手すり、ギシギシなる廊下、鍵の壊れたロッカー、角材を組んで波板トタンを張っただけの、「アングラ劇団の仮設劇場のような」屋根の下の露天風呂。
吹きっさらしの荒野に、身ぐるみ剥がされ、全裸で放り出された気分だ。
しかし、湯に浸かれば世界は一変する。「ボロい」は「ひなびた」に、「不安」は「風情」に変わり、加えて、なにしろお湯の質や温度がいい、と言う。
これまで入りたくても、なんとも言えぬ恐怖感が湧いてきて入ることできなかった「かっぱ天国」。今度、絶対行ってみよう。
ちなみに、私が本書で一番心惹かれたのは、笹塚温泉に浸かった後に入った居酒屋で出たという小ぶりのじゃがいもの塩ゆで。皮ごとかじって食べる。
読了後、「じゃがいもの塩ゆで、じゃがいもの塩ゆで」と呟きつつ、近所にある「ネスパス秋山温泉」に出かけ、ついでに「久住さんの目」で、存分におじいちゃんたちの行動やら形状やらを観察してしまったのである。
ということで、「正月気分など抜けなくていい」というのが、本書を読んだ私の結論。今年は、たとえ〆切日でも隙あらば日帰り温泉に通い、365日、正月気分でちゃっかりと過ごしたい。
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学生時代、なぜだか大好きだった、ダンドリくん。泉昌之は、久住昌之と泉晴紀とのコンビ名。絶版とは。
ちなみに私は今でもダンドリがものすごく悪い。