ユダヤ人のことを知りたいけれど、いろいろとありすぎてわからない。
どの本を読んだら、よいのやら。
そんなあなたが読むべきはこの一冊だ。そもそも、翻訳者の入江規夫さんがこの本に興味を持ったのも、同様の素朴な疑問からだった。
海外の出版社と仕事をしていた入江さんは、フランクフルト国際ブックフェアに参加する。毎年秋に開かれる、世界最大の本の見本市である。フェア開催中のとある夜の着席パーティーでのこと、同じテーブルについたメンバーは、自分と台湾の編集者以外なんとすべてユダヤ人。ただし、国籍はドイツ、イギリス、フランス、イタリア、スペイン、ポーランド・・・とばらばらだ。と思いきや、それぞれが三代、四代前の先祖のことや、「自分の祖父はポーランドのある収容所にいて、戦争が終わったあと歩いて故郷に帰ったがすでにそこには別の人が住んでおり、しかたなく船を見つけてイギリスへ渡った」「あの収容所には自分の祖父もいた」などと語り始めたという。大河ドラマもかくやという劇的な話にすっかり聞き役に回ったそうだが、自らの歴史についてのユダヤ人の知識や関心の高さに驚くのだった。
それならばと、入江さんは同席のユダヤ人出版関係者たちに聞く——不勉強なので、学びたい。あまり長くない、ユダヤ人の歴史の参考書はないか?
そこで瞬く間に複数の推薦があったのが本書だ、というのである。
著者のシェインドリンは、アメリカ、フィラデルフィア生まれ。アラビア文学を専門に勉強し、アメリカ・ユダヤ教神学院でラビの資格を取るまでに学び、現在は同学院の教授をつとめているという。著者自身が、インタビューの中で、「自分の子供でも容易に理解できるような短くて分かりやすい、しかも率直で普遍的なユダヤ人の歴史の必要性を感じていた」と答えているが、その狙い通り、目からうろこ、どころか目そのものが落ちそうになるほどわかりやすい一冊だ。
あとがきから読むなんて邪道——そんな人もあるかと思うが、少しかいつまんで翻訳に至るまでを紹介してみた。なにしろ本書の場合は、舞台裏を多少知ったところでびくともしない3000年の時間が背後に流れているのである。一冊を読み通すと、ユダヤ人の歴史のうねりが身にしみ、腑に落ちてくる。歴史の大河の流れに船を浮かべて、楽しんでいるような感覚だ。川遊びが済んだら、手元において、索引から興味ある事柄を読めば、印象深い風景が引き出されるだろう。
第一章(「古代イスラエル人の起源とその王国」)や第二章(「ユダヤの地とディアスポラの起源」)のあたりの紀元前の歴史は、似たような固有名詞が多くて少々混乱しないでもない。だけれど、その固有名詞自体がどこか聞いたことがあるものばかり。カナン、ヤコブ、ヨセフ、シナイ山、モーゼ、ペリシテ、等々、少し我慢して(笑)、第三章(「ローマ帝国下のパレスチナとササン朝ペルシアのバビロニア」)あたりにさしかかってくれば、もうこちらのもの。私も、特に三章以降は、ぐいぐいとひきこまれ、すらすらと読んでしまった。面白いと思った箇所に付箋をつけていたら、びっしり。付箋の意味がない。
要所に入っているコラムにも、気になる言葉が多い。「ダビデ」「死海文書」「アシュケナジムの起源」「ロスチャイルド家」「ディアスポラ」などなど、古代から現代に至るまで、様々なテーマを取り上げている。
そもそも、ユダヤ関連の本というと、陰謀史観や特定の立場による解説書ばかりに思えないだろうか。中立的な立場で書かれた、ユダヤ人の歴史の全体像を把握できる本は、あるのかもしれないがなかなか発掘できないのが正直なところ。その中でもユダヤ人出版関係者が薦めるというこの本は、格好の入門書だろう。実際に私にとってはそうだった。ちなみに、オックスフォード大学出版局の叢書に入っている「基本図書」だそうで、英語圏でも一定の評価を得ているようだ。
著者がラビの資格までとっているからといって、ユダヤ人に一方的に肩入れしているわけではない態度も好ましい。ホロコーストについての第九章では、淡々と事実が記述されていき、その明快さと過酷さのギャップには逆に泣けてくるほどだ。十一章「一九四八年以降のユダヤ人」では、ユダヤ人国家イスラエルが、独立後にアラブ人に対して行なった残虐行為についても触れている。イスラエル建国がなぜそれほどに切望されたかは、第十章の「シオニズムとイスラエル建国」を読むとよくわかるだけに、なんとも切ない気持ちにさえなるのだが。
3000年にも及ぶ歴史上には、ユダヤ人とイスラム教徒の蜜月時代もあった。イスラム帝国が勃興し、文化の中心となった時期、10世紀までと、オスマン帝国が最盛期を迎えた15、16世紀だ。帝国の住人となったユダヤ人は、地位や生存権、信教の自由を認められた。これは預言者ムハンマドの教えによるものだという。元来、そういった関係が築きうるのだという単純なことにも気づかされる。
時を経て現在に至るまでの出来事の連なりを丁寧に追うことができ、今年いちばん「身になった」と感じる読書となった。
過去があるから、今がある。
秋の夜長に、幾晩かかけて、ユダヤ人の歴史の大河に身を委ねてみることをオススメしたい。
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