ディスカバリー・チャンネル、ナショナルジオグラフィック・チャンネルなど、海外のドキュメンタリー好きなら、オオカミの群れと一緒に暮らすこの男のこと知っているかも知れない。日本のテレビでも何度も取り上げられているので、彼の顔に見覚えのある人も多いだろう。
オオカミの群れとともに暮らし、服を何ヵ月も着替えず、羊の死体から直接生肉をむさぼり食い、唸り、遠吠えをする。彼が動物の内臓を食いちぎってオオカミを威嚇しつつ唸っている映像を見たとき、いくらオオカミに魅せられているとはいえ、なぜここまでやるのか、と衝撃を受けたものだ。
その男、ショーン・エリスが、自らオオカミへの思いやオオカミとの生活について語った本がついに出た。そして「なぜそこまでやるのか」が少しだけわかったような気がした。
エリスは父親の顔を知らない。イングランドのノーフォーク州の農場で生まれ、貧しい農夫である祖父母によって育てられた。母親は金を稼ぐため、外で働き詰めだった。しかし彼の幼少時代は不幸であるどころがまったく幸福であった、という。ウサギやキジを狩り、祖母の作った美味な食事を食べ、農場の犬たちと交流した。叡智あふれる祖父から、自然とともに暮らすためのさまざまな方法を教わった。祖父に全幅の信頼を置き、祖父と共にいることが何より心地よかったそうだ。
その幸福な時代は、祖父が脳卒中で倒れ、死んでしまうことで大きく変わる。祖母とも別れ、働き詰めの母との2人暮らし。「すべてを失った」と感じたエリスはやがて家に帰らなくなる。その後軍に入隊するなど紆余曲折を経て、オオカミの飼育とかかわるようになったエリスは、「オオカミが私の家族だ」と感じるようになる。オオカミとともにいるときに、まるで家にいるような安らぎを得るようになるのだ。
ごくごく単純に言えば、家族を喪失した男が、オオカミの群れに入って家族を再生する物語、と言ってもいいかも知れない。しかし、家族を失った人間はこの世界に山ほどいる。この単純なストーリーでは、やはり彼が「なぜそこまでやるのか」という答えにはならない。幼少期の環境、祖父の教え、生物への好奇心などなどの積み重ね、というのがつまらない正解なのかもしれないし、単に、たまたまオオカミが大好きな男が、好きな事だけを徹底的にオオカミに続け、いつのまにか誰にも到達できない地点に達していた、ということなのかもしれないが、彼が出会ったネイティブ・アメリカンの解釈に頼るのが、私には今のところ一番しっくり来る。
幼い頃、彼はキツネの家族に出会う。
私が目撃したものは魅惑の世界だった。(中略)ひづめのある馬の巨大な足の間で遊んでいるのは、四匹の子ギツネを連れたこの世にも美しい雌ギツネだった。(中略)次の晩、またそこへ帰った。案の定彼らはそこにいた。そこは彼らの遊び場で、彼らの巣が森の中のすぐ近くにあったのだろうと考えるしかない。今度も私は近くに座って眺めていたが、今度も彼らは私を無視し、そこにいさせてくれた。このことが何か月も続いたが、(中略)ある晩、私の背後でがさがさ音がして、四匹の子ギツネの中で一番むこうみずなキツネが私の座っている背後の藪の中でふざけ始めた。そのキツネは突然草原に飛び出し私の周りを駆けまわり、ふざけて仲間の子ギツネを不意打ちにした。私はもはや観察者ではなく、彼らの遊びの一部になっていたのだ。
幼いエリスはキツネと交流を続け、母ギツネが子どもたちの面倒を見ると同時に子どもたちに自分の力で生きるすべを教える姿を目に焼き付けた。そして六ヵ月後のある日、エリスは「私を悲しみと恐怖で震えあがらせた光景」を目にすることになる。
子ギツネの中で最も勇敢なあのキツネが、足を怪我して死んだまま木から吊るされているのに出くわした。おぞましい罠にかかり、長い時間かけて死ぬまで苦しみ、片足で吊るされていた。この何か月か私が身近に観察し、あんなに神々しく、美しく、元気一杯だったこの生き物が、こんなひどい卑怯な方法で命を奪われたという事実に、私はキツネたちに対し申し訳なさでいっぱいだった。私は吐き気がした。
のちにエリスと出会ったネイティブアメリカンたちによれば、これがエリスを運命づけた瞬間だと言う。そのときエリスは「動物と暮らす不文律の契約」を交わし、自然界と人間の世界の境界に生きる者となったのだ。
本書の白眉は、なんといってもエリスが単身ロッキー山脈に乗り込み、野生のオオカミの群れに近づいて、ついには群れの一員となって暮らす部分の描写だろう。何ヵ月もかけてオオカミと接触し、一瞬で骨を砕く力のあるオオカミたちに(つまりは一瞬で彼を殺すことができるわけだ)首や体を咬ませ、徐々に群れの一員となる。そして群れとともに暮らし、彼らが分け与えてくれる食料(例えばアカシカの足)などのみを食べ、繁殖期にはオスたちの力の誇示するアピールのターゲットとなってさんざんいたぶられる。やがて群れには子どもが生まれ、赤ちゃんオオカミたちは完全にエリスを群れを構成する成獣とみなし、エリスの口を噛んで食べ物をくれ、とねだるのだ。
さらに驚くべきことは、ロッキー山脈に入り、オオカミと群れと暮らした期間は2年にも渡るということだ。むろん、食料も文明の利器も持たない、身一つの人間が、過酷な自然の中でただ一人で生存することなど不可能だ。オオカミの群れに受け入れられ、彼らと寝食をともにすることで、かれはまさに「野生動物」として生き延びることができたといえよう。
2年ぶりに人間界に戻ったエリスだが、もとの人間の暮らしに戻るのには時間がかかる。生肉に馴れた体は、当人が食べたいと切望していたジャンクフードをまったく受け付けず、しばらくは炭水化物を食べても吐くか下痢をするかだったというが、それ以上に問題だったのが、「人間世界」そのものへの適応だった。
私が住んでいた、そして仲間として属していると感じていたオオカミの世界は極めて単純でバランスが取れていた。ごまかしや、悪意や、根拠のない残酷さのない世界だった。何かがなされるには必ず誰でもが理解できる理由があった。(中略)彼らにとっては家族という単位の安全を守り養うことが最も重要なことだが、この世界を共生している生物に対しては尊敬の念を持っていた。彼らは遊びではなく食うために殺生するが、決して食べられる以上の殺しはしない。
これと対照的に人間はあらゆることを当たり前のことと考えている。人間は貪欲で、利己的で、人間しか大事な種はいないかのように地上を略奪している。だから私たちの社会に危険と思いやりのなさが蔓延している。飛行場で出発を待つ間、両親が子どもたちと口論し、何でもないことで、子どもを折檻しているのを目撃した。私は叫びたかった、「止めろ。子どもとは楽しめ。授かりものに感謝しろ」と。
その後、エリスは自らオオカミの飼育に乗り出し、その生態を研究するとともに、ポーランドなどでのオオカミによる家畜への被害を抑える活動や、人々のオオカミへの誤解を解く活動などを行っている。それらに関しては、彼を扱ったテレビドキュメンタリーに詳しいので、ぜひ一度は見てほしい。
私が特に感心したのは、群れの一員となって子どものオオカミを育てつつ、そのオオカミたちに、自分がロッキー山脈のオオカミの群れから教わった知恵を教えていることだ。この先、その飼育オオカミたちが野生で生きることはない。しかし、いずれイギリスでもオオカミを野に放つことが実現するかも知れない。そのときに、自分が飼育オオカミたちに教えた「野生オオカミの知恵」が、孫やひ孫の代オオカミたちに伝わっていれば、彼らは野生オオカミとして生きていける、とエリスは考えている。
一人の男がオオカミの知恵を受け継ぎ、それを失った別のオオカミたちに教える。そんな信じられないような話が実際に起きており、それにより、長きにわたって一つの種に代々受け継がれてきたが、今まさに途切れそうな叡智の糸が、ぎりぎりのところでつながる。そんな壮大なストーリーに、グッと来てしまうのだ。
実は本書はほかにもさまざまな読み方ができる。オオカミの群れを構成する、もっとも頭がよく知識があるリーダーと、命令に忠実な、もっとも体格のよい実行役、メンバー全員が自分の役割をまっとうするように鼓舞する品質管理係、常に争いを収める仲裁役などの解説は、原始的な組織を扱った組織論とも読めるだろう(なにしろテンプル・グランディンの本によれば、人間とともに暮らすようになったオオカミたちが、人間に社会的集団の作り方を教えた、という説もあるのだ)。
また、オオカミの生態は、犬のしつけへの有用な情報を提供してくれる(そして現在の犬のしつけ方の多くは間違っている)とエリスは主張するが(たしかに『137億年の物語』によれば、今日飼われてる犬は氷河期に進化したタイリクオオカミの直系の子孫なのである)、犬の扱いに関する著者の論は、愛犬家にとっては実用書として役立つかもしれない。
さらに本書は、オオカミに夢中になって人間の女性とうまく愛をはぐぐめなかった男の物語とも読める。幼き日の幸福だった家庭を追い求め、それをオオカミの群れのなかに見出しつつも、悲しいかな、彼は何人かの女性と巡り合い、子どもも作ったものの「人間の家族」を維持することはできなかった(エリスはこの点についても実に率直に書いている)。しかし、本書の本文内では触れられていないが、今は、ともに「ウルフ・センター」を運営する保全生物学者のイスラ・フィッシュバーンと結婚し、新しい暮らしが始まっている。本書を読んですっかりエリスに感情移入してしまった私は、オオカミを愛する2人が、真に幸福な家族を作れることを祈っている。
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HONZ的には、「オオカミ」といえばまず連想するのがこの本。東えりかのレビューはこちら。そして成毛眞が新潮社のPR誌「波」に書いたレビューはこちら
この本も実に面白い。哲学者がオオカミと出会い、死を看取るまでを語りつつ、人間とは何かを思索する。
日本の野にもオオカミを放そう、という本。まだHONZの前身の「本のキュレーター勉強会」ができたばかりの頃、この本を話題に東えりかと話をしたことがあるのだが、実は、内心ちょっと感激していた。こういうマイナーな本の話題をごく当たり前に誰かと話せるなんて、生まれて初めての経験だったからだ。孤独なノンフィクション好きだった他のメンバーもそういう経験をしていて、いまのHONZの結束があるのである。ちなみに、この『狼の群れと暮らした男』は誤って2冊買ってしまったので、一冊は「HONZオオカミ班」の一員である、東えりかに献呈した。