「おばけと妖怪を一緒にするんじゃない」
京極夏彦には一喝されそうである。奇妙だが魅力的な「妖怪手品」という言葉は、著者の研究仲間が作った造語だそうだ。知っている者は、日本に数人しかいないという。この言葉を「幽霊の出現などの怪奇現象を、種や仕掛けによって真意的に作り出す娯楽」と定義し、華やかな発展を遂げた江戸時代文化文政期を中心に、それ以前や江戸時代、果ては諸外国にまで手を広げて研究した結果がこの一冊に集約されている。
子供の頃から手品が好きだったという横山泰子は、専攻である比較文化の研究中、『日本庶民文化史料集成』のある記述が目に留まった。それは「座敷へ天狗をよぶ事」ことや「座敷へろくろ首を出し見せる伝」などと書かれた横に、その絵が付いた箇所だった。それはまるで子供の頃に読んだ手品の種明かし本のようで、わくわくする気持ちが湧き上がってきたという。そんなことから「おばけを出す手品」の研究が始まった。
さて著者の気になった「妖怪手品」をいくつかご紹介しよう。環中仙い三『さんげ袋』に書かれているのは、先に紹介した「座敷に天狗をよぶ事」である。これは人間が天狗に変身する方法である
茶せんをはなにこしらへ、すえのかさを以ってときんとし、あミかさ二つ羽かいとなし、うちハを引さき羽うちハにこしらえ
これだとよくわからないので翻訳すると
茶筅を鼻につけて天狗のような高い鼻をこしらえ、編み笠(すげなどで編んだかぶり笠)を二つ使って翼にし、団扇を引き裂いて羽団扇にする
あれれ、これは単なる宴会芸ではないか。
「座敷にろくろ首を出す術」もこうだ。
ちょうちんの胴部分をつなぎ合わせて一間の長さにし、先端に張り抜き(張り子のこと)の女面をくっつけておく。縁者は一室に入って証明を暗くし、一間ばかりの細竹を提灯の中に仕込み、客が待つ座敷のほうへ出すのである。
高校生の文化祭のおばけ屋敷のほうがまだましではないのか?
そう、「妖怪手品」のある部分は宴会芸である。薄暗い行灯や照明のなかで、一瞬だけあっと驚く仕掛けを紹介する実用本がたくさんあったのだ。
今の我々には他愛のないものでも、初めて見る人は腰を抜かす、そんなものには「光る玉」や「人魂」がある。乾燥した芋の茎の粉末と硫黄を半々に混ぜたものを水で溶いて管で吹くと大きな光る玉が現れる、とか、石鹸・シャボンを茶でこねて、シャボン玉にすると光の加減で人魂にみえる、などちょっとやってみたくなるではないか。
しかし、こんな素人技だけではない。「妖怪手品」はプロの芸にも及ぶ。その際たるものは歌舞伎であろう。妖怪やら化け物、幽霊は舞台に付きもの。大掛かりな仕掛けを施し、観客を驚かせる。江戸後期の役者、初代尾上松助は、独自の工夫をなし特殊な早替わりで人気を博した。崇徳新院が天狗に替わったり、中将実方が雀に替わったり、をみた観客はその後しばらく語り草にしただろう。
http://youtu.be/JyBlwbU-yRw
こういう、いわゆる手品の種明かしはヤボである。しかし人は種を知りたがる。宴会芸の実用書と同じくらい、プロの技術も種明かしされてしまった。あまりに明かされすぎて、人気がなくなった人形浄瑠璃のルーツ「竹田からくり」という芝居もあったという。
海外に目を転じて著者は各国の様々な本を渉猟するが、日本ほど豊かで明るく可笑しなものは少ないようだ。ひとつには「おばけや妖怪なんかいるもんか」という共通認識があるからではないか、と推察している。宗教的にもまた風土によっても、化け物や魔女の存在が信じられているところでは娯楽にならないだろう。
この手の手品は現代まで連綿と続いているが、有名な作家が大好きだったことが明かされている。それは江戸川乱歩。池袋の旧江戸川乱歩邸に所蔵されている。確かに、推理小説とは行っても、乱歩の作品はカラクリが多用され、おどろおどろしい雰囲気を醸し出している。そういえば、乱歩の原作『人間豹』が数年前に新作歌舞伎になっていた。出来は…まあ、それはそれとして。
最後にこの玩具の当時の名前を知ってちょっと驚いた。みなさんご存知でしたか?
なんと「睾丸笛」というのだそうだ。
風船には顔を書いておき、障子に穴を開け睾丸部分を差込んで膨らませる。
なんと大入道の出来上がり!
楽しいなあ。
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現代の妖怪手品の裏側。
鈴木葉月のレビューはこちら。
五代目尾上菊五郎は粋で華やかな世話物の評判が高いが、実は、彼は「キワモノ王」でもあった。プロの妖怪手品、これも面白い。
驚愕の村上浩のレビューはこちら。