この本に収められているのは、日仏の文豪12名のラヴレターを巡る物語である。
恋愛書簡はここまで書かなければならない。
「私はこれまでほかの女性に一度たりともこんな言葉を書いたことがありません」
たとえそれが真っ赤な嘘だとしても。
本書が『恋愛書簡術』を謳っているのは、「ラヴレターとは純粋な愛の告白などではなく、相手に向かって自分の愛が本物だと説得する技術的な作文」との見地による。それは誘いであり、駆けひきであり、演技であり、戦略であり、罠でさえある。
しかし、当初の計算を越えてなりふり構わず書くうち、文面にあられもない自分が現れてしまう瞬間がある。そこが小説の「虚」や日記の「実」のいずれとも異なるラヴレターならではの醍醐味なのだろう。
とは言え、あられがないにも程度がある。非凡な激情家で言葉を操ることにかけては余人の及ばないのが文豪たるゆえんではあろうが、ともすれば彼らのラヴレターは芸術的・官能的一線を越えたドギツイ猥褻表現のオンパレード。「HONZ倫理協会」に本稿の発禁は食らわないまでも、さすがに昼日中から読者の皆様の心を掻き乱すのも忍びない。
そこで、こちらでは中でも「おとなしい」と思われるバルザックのエピソードをご紹介したい。
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当年33歳、すでに人気作家として活躍し男ざかりでもあったバルザックのもとに一通のファンレターが届く。消印は、はるか遠い黒海のほとりにあるウクライナのオデッサ。署名にはただとあるばかり。
自分好みの貴族女性の香りを嗅ぎつけたバルザック。が、返信を書こうにも住所が分からない。そこで、新聞の「ガゼット・ド・フランス」に広告を出すという奇策に訴える。
そして待つこと7ヶ月、から2通目の手紙が届く。
あなたの作品を読んで、私の心は震えました。あなたの作品を読んだ瞬間から、私はあなたとひとつになり、あなたの天才とひとつになりました。(略) でも、あなたにとってわたしは異国の女。生涯そうであるほかないでしょう。あなたは決してわたしの顔をご覧になることはありますまい。
これを読んだバルザックの胸中は察するに余りある。実はこのの正体、バルザックの鋭敏な鼻が嗅ぎ分けていたように、ロシア領ポーランドのヴィエシホヴニァに暮らす貴婦人であった。
しかもこの彼女、エヴェリーナ・ハンスカ夫人は並の貴婦人ではない。22歳年上のハンスキ伯爵は元帥で、ウクライナに広大な城館を構え、領地は20000ヘクタール以上(東京ドーム5000個分!)、抱える農奴は3000人を超え召使も200人は下らないという、規格外の富豪であった。
ほどなく2人は手紙のやり取りを始める。文通の期間は都合18年間に及び、バルザックが夫人に書いた手紙は444通残されている。翻訳すれば文庫本で軽く10数冊になろうという厖大な分量だ。
さてバルザックのお手並み拝見。早くも3通目で絶妙の比喩を駆使する。
誰からも求められない孤独な魂がどれほどの力を込めて真の愛情に飛びつくか、あなたに教えてあげましょう。私はまだ見たこともないあなたを愛しています。(略) 私は、牢獄の奥底で、遠くから聞こえてくる甘美な女性の声に耳を傾ける囚人のようなものです。そのかすかな声を力強く聞くことによって、囚人は自分の全身全霊を持ちこたえているのです。そして、夢と希望の長い時間が過ぎ、いくつもの創造の旅を終えたとき、囚人は若く美しい女性に命を奪われるでしょう。それほどにもこの幸福が完全無欠だからです。
熱のこもった手紙の交換。ふたりが実際に会ってみたいと思うようになるのは当然の成り行きである。1833年、ハンスカ夫人が年老いた夫を口説き落としての長期ヨーロッパ旅行の折、滞在先スイスのヌーシャテルで2人はついに対面を果たす。パリに戻って記されたバルザックの手紙はこうだ。
わが愛するエヴァ、こうして私には、新たな人生が甘やかに始まったのです。あなたをこの目で見て、あなたと言葉を交わし、魂と同じく、私たちの体も結合をとげました。(略) ですから、ひとつきの間、狂ったように働かねば! これもすべてあなたに会うためです。私の思いのすべてに、私の書きしるす一行一行に、私の人生のあらゆる瞬間に、私の全存在に、私の髪の毛すべてにあなたが存在していて、その髪の毛だってあなたのために生えてくるのです。
このほとんど気が触れたとしか思えない手紙、誰しも2人が体を交えたと読むだろう。しかし実際は、ハンスキ氏が妻ハンスカ夫人を片時も離れようとしなかったため、朝食の隙に木陰で初めてのキスを交わすに留まったようだ。この後、ハンスカ夫人との逢瀬は2度、3度と繰り返される。
しかし、バルザックはハンスカ夫人にのみ忠誠を誓っていたわけではない。彼より22歳年上(!)で、すでに10人の子どもを生んでいた嫉妬深いベルニー夫人との関係は続いており、残酷なカストリー夫人、聡明なカロー夫人への野心も収まっていない。「1000匹の牝猫みたいに欲望がある」無名の情婦もいたし、「1年だけ愛してください」と訴えたマリアという女性には子供まで孕ませていた。なぜこんな細かいことが分かるのかといえば、バルザック自身が妹への手紙で自慢しているからだというから呆れたものだ。
時は過ぎ1842年、パリで借金取りの激しい追及に苛まれるバルザックに驚くべき報せがもたらされる。ハンスカ夫人の夫、ハンスキ氏がなくなったのだ。「彼女との結婚を実現し、夫人の財産によって、たえず迫りくる債鬼の群れに永遠の別れを!」 バルザックに再び希望の灯がともる。
手紙は奔流のごとく量を増すものの、彼女への熱愛を吐露する書簡に見られた余裕はもはや完全に消えうせている。「書簡術」といった余裕は金銭にも色濃いにも切羽詰った中年男にはもはや持ちようがなかった。夫人の冷たい反応に焦るバルザック。
なんと氷のような冷たさでおっしゃるのですか―「あなたのご自由になさって」とは。この9年間、まさかこんな目にあおうとは想像だにしなかった男、希望など捨てて愛してきた男に向かって。(略) あなたの手紙は末尾のところしか読みたくなかった。「どうかあたしを信用してください」とおっしゃっていますからね。でも、「あたしを裏切らないで」ともおっしゃっている。私が他の女に心を動かされたことがあるとでも?
彼はついにハンスカ夫人のいるサンクト=ペテルブルクへと旅立つ。再会した夫人は肥満し、バルザックは衰弱しきっていた。ヨーロッパ旅行、懐妊、死産を乗り越え、1850年3月についに2人は結婚。このとき、バルザックの命はもはや3ヶ月しか残されていなかった……。
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以下は本書収録の12編のタイトルだ。週刊誌の中吊り広告にでも踊っていそうな文言からは、文豪たちがのっぴきならないシチュエーションで苦しむ様子が目に浮かぶ。
– アポリネールと伯爵夫人ルー ― 官能と陶酔のファンタスム
– エリュアールと芸術の女神ガラ ― 遠く離れた恋人たちをゆさぶるエロス
– 内田百閒と憧れの君 清子 ― 読まれることを目的とした日記の真相
– バルザックと異国の人妻ハンスカ夫人 ― ファンレターから始まった十八年間の愛
– ユゴーと見習い女優ジュリエット ― 最後まで添いとげた生涯の影の女
– 谷崎潤一郎と麗しの千萬子 ― サブリナパンツに魅せられた瘋癲老人の手練手管
– フローベルと女性詩人ルイーズ ― 年下の男のリリカルな高揚とシニカルな失速
– コクトーと美しき野獣マレー ― 禁断の同性愛から至高の友愛へ
– ミュッセと男装の麗人サンド ― 『世俗児の告白』に隠された真実
– スタンダールと運命の女メチルド ― 『恋愛論』の真の作者との悪戦苦闘
– ドビュッシーと「かわいい『私の女』」エンマ ― 家庭内外交の苦手な男の絶妙の書簡術
– アベラールとエロイーズ ― 去勢されて目覚めた修道士と愛欲に殉じた修道女
彼らの不義密通はいただけないものの、これぞ「読む強壮剤」。文学・歴史好きのみならず、私生活のマンネリにお困りの方にも一読をお勧めしたい。