美術館の作品にはそれぞれ物語があって、それを個々に全体に表現するというのがキュレーターの本来だろう。その場に行けば作品と空間を共有することはできる、しかし、時間は容易に共有できない。作品の生い立ちを紹介する方法によって、つまり、物語の表現によって、作品の見え方が変わる。私という個人を誰かが紹介するようなものだ。美術に限った話ではない。これからは、背景となる情報はネットワークから得られるようになるだろう。作品がどこかの道端に落ちていても、それを判別できる技術があれば、そして、それについての物語にアクセスできれば、そこが美術館でなくても、野にある作品として説明することができる時代だ。世界のあらゆるノンフィクションに、物語を与えることができる。HONZも本を通じて然りである。
個人の美術館というのだから、きっと通常の美術館より強い気持ちが込められているに違いない。その物語を、芸術家で、芥川賞作家で、「トマソン」で、「老人力」の赤瀬川さんが紹介する。読む前からおもしろいに決まっている。美術にはぜんぜん詳しくないけれど、45の美術館から発する45色のオーラを、色紙をパラパラめくるように読んだ。個人美術館は、それぞれが1つの奇跡だ。
たとえば京都の何必館。館長の梶川芳友さんが21歳の時、たまたま時間つぶしに入った美術館で、村上華岳の『太子樹下禅那之図』に出会った。それまで特に絵に興味がなかったにも関わらず、梶川さんは、これを絶対に手に入れようと決める。そして、目途もないまま、5階建ての美術館を設計し始めた。さらに、この絵を中心にした構想を描き、それに見合った絵を購入していく。その中にはパウル・クレーの絶筆もあった。するとこれも何かの縁とクレーの墓参りにスイスに行き、そこで墓碑銘を写したり、写真を撮ったりしていたら、クレーの親戚がきた。命日だった。そこからの縁で、後に、何必館でクレー展が開催されることになる。肝心の華岳の絵については、そうこうしているうちに「まだ手に入れてもいないのに美術館まで建てた変人」と噂になり、また、本人も人に会うたびに話をしていたので、いつしか持ち主の耳にはいった。そして「それほどまで思っているならあげましょう」となったのだが、それでめでたく開館するかと思いきや、そこからさらに、オープニング時に配布するための本『何必館』の撮影にとりかかり、撮影と造本に2年間かかり、事業の失敗、転売かと噂になった。アサヒビール大山崎山荘美術館は構想から完成まで20年かかった。平櫛田中彫刻美術館にある歌舞伎人形『鏡獅子』も、製作に20年かかった。安野光雅美術館は、安野さんが長く先生を務めたためか、昔の学校のようなつくりになっている。プラネタリウムもある。それぞれの美術館に、それぞれのカラーがある。
本書は、東海道新幹線のグリーン車にある『ひととき』という雑誌に4年近く連載された記事をまとめたものだ。赤瀬川さんは画家なので、作品を集めた人たちが何故「自分で描かず」、他の人のものを集めたのかと考える。そして、それは「散財の爽快さ」であろうと言う。いかにもグリーン車向きだ。散財とは、非効率であり、贈与であり、(燃やすとか紙飛行機にするとか)お金を他の用途に使うことであり、異端だ。私はなぜか、正確には憶えていないがあの話、池のほとりで釣りをしている若者に「ちゃんと働け」と説教した人が、「何故働かなければいけないのか」と返され、「働いてお金持ちになったら悠々自適に遊んで暮らせるだろう」と言ったら、「私は今それをしている」と言われた、という話を思い出した。もちろん、美術館を建てた人や作品を残した人は悠々自適とは限らず、困難を極めた人や執念の人も多い。しかし、確かに、本書には爽快の感があった。あえて無理やり喩えて言うなら、丘の上には誰もいなくて風が寒くても、登ってみたら見晴らしが良くて気分がよかった、とか、そんなようなことかもしれない。