談志が死んだ!
そうか、とうとう…そう思った。
ここ数年の高座では、まず最初に「死ぬ」ことの小咄から始まっていた。あまりにも死ぬ死ぬといいながら復活するので、もしかしたら死なないのじゃないかとも思っていた。
本書は今年6月に出た立川志らくの新刊を新潮社のPR誌「波」で書評したものを再掲。
立川流の弟子たちは総じて筆が立つのだ。
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私の回りにはなぜか談志嫌いが多い。父も母もイヤミなところが鼻に付くと今でも嫌いらしい。夫は関西出身者で根っからの上方落語派。落語会に誘っても「フンっ」とそっぽを向かれてしまう。
そんな環境なのに、私は昔から談志の落語が好きだった。クールでスマート、スタンダップ・コメディという言葉も談志から学んだ。数年前の年末に「芝浜」を聞いたのは自慢の一つだ。
立川志らくの新刊『落語進化論』は「師匠に捧げる讃歌」である。立川流の落語家は談志に憧れて入門したわけだから、尊敬しているのは当たり前だが、志らくのハートは尊敬を通り越し、未だに師匠に釘付けなのだ。
志らくは立川流四天王の一角を成している。映画評論家としても名高い。そんなところから「シネマ落語」をつくり、一席を超スピードで駆け抜ける「ジェットコースター落語」でも名を馳せた。しかし今回はじっくりとっくり古典を語る。
本書では、現代における落語の姿と進化について、映画のシーンに準えて読者に語りかけていく。ときにはマニアックすぎて、例えになっていないような気もするが、チャップリンの作品や大好きな「ゴッドファーザー」、小津安二郎などを例にとって娯楽とはなんぞや、と考察する。映画の俳優が役を演じるための努力、監督が画像にこだわる執念、それと同じものを落語に求めていく。
かつて習った噺や名人の十八番、これぞ古典という落語の矛盾を徹底的に洗い出し、現代に生きる人、誰もが納得できるように落ちを変え、人物造詣に手を加える。角を矯めて牛を殺さないように、細心の注意を払いながら彼は落語と格闘している。落語と人情噺は違うといわれているが、それを落語にするまでを見せていく。志らくの落語はこうやって作っているんだぜ、と手の内をすべて曝けだす。選んだ噺は「紺屋高尾」「浜野矩随」「子別れ」「柳田格之進」という大ネタだ。手を加えた物語に、なるほど、と膝を打つ。
同門の落語家たちへのライバル意識もむき出しだ。志ん朝の跡を継いだといわれる兄弟子・談春、計算された狂気で急成長をしている弟弟子・談笑、「立川流の最高傑作」と呼ばれる志の輔でさえ射程内である。同い年の柳家喬太郎、親友の柳家花録など、人気の高い落語家たちへの評価も厳しい。
落語ブームだといわれて時間が経った。志ん朝の急死がすべての始まりだったという志らくの分析は正しいと思う。その後、数年で若手と呼ばれた落語家が頭角を現し今のブームの牽引車となった。志らくもそのひとりなのは間違いない。四十代半ばを超えて、一皮もふた皮も剥けた。人気は正直だ、面白くない落語家は沈んでいく。尊敬して止まない談志の上を狙う志らくに、二十年後の名人を期待してもいいのではないだろうか。
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PR誌なのでいいことばかり書いているようだが、実際この本はたいしたものだと感心した。臆面もなく師匠を賞賛する姿は気持ちいいほどだ。巨星堕つ!ここに書かれた弟子以外でも頭角を現してくる落語家が出てくるに違いない。
こちらの本も合わせて読んで欲しい。
これが志らく初の著書。11年前の本だ。とんがっている。
大ベストセラーになった談春の落語青春記。これっきり書かない、っていうのがすごい。
今年夏から出始めたシリーズ。すでに7巻まで出ていてずっと買って読んでいる。噺家がどうやって古典をアレンジしているのか、大元の噺を知らないとね。