「それは書いてほしいな」。HONZ副代表の東えりかは11月の定例会で私の隣で、そう、つぶやいたのである。小声だったが確かに。本書『ポルノ雑誌の昭和史』を紹介した時だ。私はやはり「セクハラの人」なのである。
HONZサイトがオープンした7月。私は困惑した。「HONZ」の面々はレビュアープロフィールを読む限り私を含め一見普通の社会人だが(※一部例外あり)、実は単なる本読みではない。元振り付け師だったり、料理研究家であったり一芸を持つのだ。当然、それぞれバックボーンもあるし、選書もとんがっている。加えて、あの麻木久仁子まで参戦である。そんな奇人集団の中で酒を飲むくらいしか取り柄のない私がどう生きていけばよいのだろうか。私が選択した道は安易にサブカルに逃げるという道だった。それが、ふとした出来心で初回に『なぜ人妻はそそるのか』、2回目に『セクハラの誕生』を紹介したら、私は「人妻やらセクハラの人」になったらしいのである。俳優の別所哲也が昔、ハムのCMの印象が強すぎて「ハムの人」と呼ばれると嘆いていたが、かわいいものである。「セクハラの人」である。親が聞いたら勘当もの、妻が聞いたら号泣ものである。HONZ隊員の村上浩のようにプロレスを語るべきだったのである。
それ以来、月に1度、HONZメンバー同士が「今月読む本」を紹介する定例会に持っていく本を選ぶときにも、自意識過剰な私は「セクハラの人」が頭から離れず、サイエンス本など頼まれても絶対持っていくわけにはいかないのである。そんな本を紹介した日には「病気か?」と心配されるだけだ(実話)。 もはや私に残された道は「セクハラ道」を突き進むだけ。朝っぱらからポルノ雑誌について語るしかないのだ。結局、人間は想定していなかった状況に陥っても耐えて、耐えてその道で勝機を見いだすしかないのだ。これは、今回、紹介する本の著者の生きざまをみてもわかる。HONZの洗練された(?)女性読者に嫌われようともセクハラをぶちかますのみである。まあ、そういう人はここまで読み進めていないだろう。強引、かつ長すぎる導入部であるのは承知の上である。
本書は著者のエロ本編集者としての体験と重ねながら、戦後から現在までのポルノ雑誌の歴史を紐解いている。ただ、本書の「ポルノ雑誌」とは単なるエロ本ではない。一般の書店を通さない販売ルートで売られていたエロ本だ。本屋を通さないと聞くと、怪しい雰囲気がぷんぷん臭うかもしれないが、別に暴力団の資金源になるような無修正本ではない。通販や自販機などで販売されていたエロ本だ。人々がエロに飢えていた時代、今や、すっかり歴史の表舞台から消えてしまったが、通販や自販機売りで十数万部を売り上げていたエロ本も少なくないのだという。本書にはこうした「エロ本」の勃興から衰退までの歴史が詰まっている。
通販や自販機を通じてのエロ本の登場は70年代初頭だ。それまでエロ文化を担っていたのは週刊誌、実話誌、エロ劇画だが欧米からの輸入ポルノがパラダイムシフトとなった。背景には欧米の性表現解放のブームで流通が増えたことがあった。実話誌の広告を通じての通信販売、アダルトショップでの店頭販売という何ともニッチなビジネスながら「本屋で売っていない過激な本がある」と輸入ポルノ本はじわじわと広まっていったという。そして、輸入本を手がけた業者の中から自社でエロ本を制作する会社(松尾書房など)が出てきて、通販本ブームに火がつくのだ。
これらのエロ本とはどんなものであったのか。年配者を除けば、焦点はそこだろう。まず、すべてのモデルが完全に脱ぐわけではない。なぜなら、モデルがこれまでのプロだけでなく、素人が使われるようになったからだ。いかに脱がすかも技術なのだ。ここで素人がモデルになったことが、現在のアダルト業界の「素人モノ」の端緒にもなっている。内容もレズあり、SMありと多岐にわたる。何でもありの感もあるが特筆すべきなのは、ばらばらに見えつつも、メーカーごとの特色がすでに確立されていたことだ。著者は地道に収集した数千のエロ本を参考に、時代ごと、メーカーごとの特徴を分析している。何とも涙ぐましい努力だ。たとえば70年代、通販本の二強としてしのぎを削った松尾書房と北見書房のエロ本に見るパンツの透け具合の比較は以下の通りだ。
「パンツの透け具合が松尾書房とは段違いに良い、というのも北見書房の特徴。1977年の松尾書房はまだ薄手の木綿パンティだった。これでも少しは透 けるのだが、北見書房はレース飾りの入った化繊のパンティも使うようになる。レースに邪魔されて細部までは確認できないものの、陰毛の存在そのものは ハッキリと確認できる。-中略- 松尾書房の場合は見えたり、見えなかったりと、ここでもアドリブ的だが、北見書房はいつも一定の線までは確実に見せ ます、という安定した管理体制が感じられる。ISOでも取得しているんじゃないかと思うくらい『商品』としての管理体制が洗練されているのだ」65P、67P
涙ぐましいというより、なんか悲しくなって涙が出てくる人がいるかもしれない。それは間違いでない。私も、今、レビューを書きつつ、なんでこの本を紹介しているんだという思いがふと頭をよぎった。だが、「くだらねー」と思ったあなたも考えてほしい。当時はヘアーも解禁されていない時代。修正済みの輸入本の修整部を「バターやムヒでこすると消える」という都市伝説がありがたがられた時代。「パンツの向こう側」への青少年の欲望は発情期の猿状態だった時代だ。もちろん、インターネットもない。HONZ読者のような奇特な人種を除けば、当時、エロ本ほど熱心に何度も何度も折り目が付くほど読まれる本って存在しなかったのではないか。
そうした社会背景をふまえれば、法規性ぎりぎりで、パンディーを挟んだ透け透けテクニックを巡る2社のせめぎ合いの印象も少し変わってくるだろう。まさに、当時、新聞紙上を賑わした二輪車市場で繰り広げられたHY戦争(ホンダ対ヤマハ発動機)に負けず劣らずの2社の攻防があったはずなのである。「全部おっぴろげ」の現代には考えられない、「読み手をいかに興奮させるか」という唯一無二の読者ニーズを満たすために全力を投じていたのである。それが十数万部のヒットにつながったのである。
本書は終始がこの調子だ。出版社によるモデルの集め方の違いやら(メーカーによって女性のレベルがあまりにも違ったりコンスタントに美形がそろっていたりした)、缶詰の自販機にヒントを得たという自販機エロ本の歴史(「おかず」つながり)、モデルを脱がせる技術(前述のように、当時はすべてがヌードなわけではない)、美少女モデルの素顔などについて著者は熱く語り続けるのだ。正直、「あほくさいし、ためにならない」と言ってしまえばそれまでだ。だが、本書は、ただでさえ日陰者扱いされた「フツーのエロ本」よりも、さらに日が当たらない人々の息吹を感じられる貴重な本ではないだろうか。そして著者が、一ミリの恥じらいも後悔をも行間から感じさせず、あっけらかんと振り返っているところが何とも清々しい。
本書で紹介される「エロ本」の制作会社は一部がビデオメーカーとして生き残り、人材面でも何人もの監督を輩出し、現在のアダルトビデオ業界を支えている。「エロ本」のアダルト史の功績は小さくない。だが、メディアの多様化や、ブームの盛衰、法規性の強化で倒産するなどして会社自体は今では存在しないケースが大半だ。著者も、自販機本を制作していたアリス出版などを経て、今現在はエロ本稼業から引退している。あとがきでも、自ら、「よくこれだけ負け続けた」と振り返っている。しかし、本当に敗北したとは思っていないのではないか。
その理由は巻末にある。著者は何度も叫ぶ。「エロ本屋というのはゲリラなのだ」と。もう一回書く。「エロ本屋というのはゲリラなのだ」。ゲリラは、決して正面から強大な敵と戦わない。自分が有利なときだけ戦う。「そのためにじっと息を潜めている」と。法規制やネットというエロ本の「敵」はますます大きくなっている。著者は「私がエロ本の編集者だとは、もはや誰も知らない」と謙遜するが、再び戦いにでる時を伺っているのではないか。それほど本書は過去のこととはいえ、ぎらぎらした活力に満ちあふれており、著者のエロ本編集者としての矜持が透けて見えるのである。
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出版業界最底辺日記―エロ漫画編集者「嫌われ者の記」 (ちくま文庫)
- 作者: 塩山芳明
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エロの敵 今、アダルトメディアに起こりつつあること (NT2X)
- 作者: 安田理央、雨宮まみ
- 出版社/メーカー: 翔泳社
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なぜエロ業界が苦境に追いやられたのか。紙からVHS、DVDという媒体の変化、インターネットの普及により、供給者側が自ら自の首をしめるという構図をつくることになった変遷がわかる。