国家がひとりの勇敢な人間によって救われることがある。ウィンストン・チャーチル(1874-1965)は第二次世界大戦中に英国首相となり、連合国側を勝利に導いた。後に彼は長大な大戦回顧録を執筆しノーベル文学賞を受賞した。
チャーチルが戦時内閣の首相になってから、英国内はドイツ空軍の猛烈な爆撃にさらされた。ロンドン市内は連日のように空爆を受けたが、彼はラジオを通じて演説を果敢に行う。断固戦って勝利することを、英国民に力強く説いたのだ。
その実体験を戦後になってから詳細に書き綴ったのが本書である。1948年に第1巻が刊行され、全6巻の総計5000ページを超える浩瀚な著作だ。
初邦訳は『第二次大戦回顧録』(毎日新聞社、全24巻)で、後に縮約版の『第二次大戦回顧録抄』 (中公文庫)と『第二次世界大戦』(河出文庫、全4巻)が刊行されている。今回、原著全6巻の完訳がキッシンジャーの名訳で知られる伏見威蕃氏によって、みすず書房から毎年1巻ずつ刊行されることになった。
回顧録は第一次世界大戦が終わった時点から始まる。英仏などの戦勝国は、ベルサイユ条約によって敗戦国に莫大な賠償金を課した。この結果、ドイツはハイパー・インフレに見舞われて、中産階級が完全に崩壊。
人心の荒廃に付け入ったヒトラー率いるナチスが再軍備を敢行し、チェコスロバキアの併合を画策した。だが、宥和政策をとる英国首相チェンバレンは、ドイツへの軍事行動を一切とろうとしない。
本書は「勝者の愚行」という章から始まり、第一次世界大戦後の善良な指導者たちが、いかに誤った行動を取ったかを詳細に検証する。著者チャーチルはヒトラーの危険性を早くから察知し、チェンバレンの宥和政策を批判し続けたのである。
ところが、当時の英国民はチェンバレンの外交を支持し、対独戦の準備を唱えたチャーチルは孤立した。1939年、ポーランドに侵攻したドイツに対して英仏はついに宣戦布告し第二次世界大戦が始まった。ナチスの本質を掴んでいた著者が正しかったのだ。
彼の格調高い見事な演説に英国民は勇気づけられ、長く苦しい生活を耐え抜いた。大戦の勃発前から終戦までの詳細な記述には、戦争の推移だけでなく彼と関わった人々の姿が活き活きと描かれる。
本書は世界的なベストセラーとなり、本書をはじめとする長年の著述活動により1953年にノーベル文学賞が贈られた。第二次世界大戦から英国を救った著者は、文人としても最高の栄誉を得たのである。
チャーチルの英文には、有名なエピソードがある。実は、彼は説得力のある英語を若い頃に磨いた。学生時代の彼はとても物覚えの悪い生徒で、ラテン語やギリシャ語がまったくできなかったのだ。
業を煮やした教師は、彼の同級生が古典語を学ぶ時間に、英文法をみっちりと勉強させた。このおかげでチャーチルは英語の効果的な表現術をマスターした。
後にインド駐留の軍務に就いた折り、彼は18世紀英国の歴史家ギボンの大作『ローマ帝国衰亡史』を繰り返し読み、自分の文体を確立していった。こうして培われた雄弁で説得力のある文章が、後年世界を救ったのである(鎌田浩毅著『座右の古典』ちくま文庫)。
もう一つ、彼が回顧録を書いたきっかけが劇的なのだ。1945年7月に行われた英国会の総選挙で、保守党を率いる首相チャーチルは、何と野党の労働党に負けてしまったのである。翌日、彼は首相を辞任し、労働党首アトリーに後を託す。この日は連合国が日本に対して、無条件降伏を要求する最後通牒を突きつけた日でもあった。
そして野に下ったチャーチルは、大戦の回顧録の執筆に取りかかる。米国のルーズベルト大統領との親書など含むため、歴史的価値が極めて高い。
「過去は未来を解く鍵」とは我々地球科学者の座右の銘だが、戦争が止むことのない未来を見据える上で、チャーチルの右腕だったイーデンや盟友のドゴール及びアイゼンハワーの回顧録を一緒に読み進め、世界大戦はなぜ、どのような条件で起きるのかを歴史から学ぶのは決して無駄ではないだろう。
序文にはこう書かれている。「過去について熟慮することが、今後の歳月の指針となり、新しい世代が何十年も前の過ちを修復して、人間がほんとうに必要とする物事と栄華に則り、未来におぞましい光景がくりひろげられるのを抑制することを、私は心の底から願っている」(本書、ix-xページ)
実体験を書き綴る中では、主要人物との書簡や自身の演説が詳細に記録され、巻末にある120ページほどの「補遺」と一緒に読み進めることで、戦争を勝利に導くための「合理的思考」を追うことができる。こうした意味でも私は京都大学で24年間、学生たちに「リーダーの条件」を学ぶ際の「座右の古典」として本書を薦めてきた。
ちなみに、イギリスには「カントリー・ジェントルマン」という言葉がある。英国紳士はいざというときに国家へ貢献する。事が起こって求められれば、彼らは私利私欲を離れて献身的に働くのだ。しかし役目が終われば、直ちに田舎に退いて、再び晴耕雨読の静かな日々に戻る(鎌田浩毅著『知的生産な生き方』東洋経済新報社)。
下野後のチャーチルがまさにカントリー・ジェントルマンとなり『第二次世界大戦』を執筆した。私のロールモデルとなっている所以でもある。