社会学者、と聞いて、誰をイメージするでしょうか?
古市憲寿さん、岸政彦さん、宮台真司さん・・・。
世代などによって、かなり異なるかもしれません。
今回、わたしが書いた加藤秀俊先生は、どうでしょう(個人的に教えを受けたので「先生」と呼びます)。
この本を校正していた昨年9月に93歳で亡くなりました。最晩年には『九十歳のラブレター』が広く読まれていたので、そのお名前を再認識されたかたも少なくないはずです。
戦後に活躍した社会学者のなかで、最も早く「著作集」を出した人でもありますし、「加藤秀俊データベース」に掲載されている膨大な文章を書かれてきました。少なくともある時期までは、日本で最も有名な社会学者(のひとり)でした。
その加藤先生についての拙文をふくむ『戦後日本の社会意識論 ある社会学的想像力の系譜』は、戦後に活躍した社会学者についての、評伝選と言えるものです。ほかには、鶴見俊輔(を社会学者に含めるのは、どうか、という点もふくめて論じられています)や、鶴見和子、といった著名人や、清水幾太郎、見田宗介、は今も盛んに論じられます。
『気違い部落周游紀行』で知られる「きだみのる」も含めているのは珍しいでしょう。
ほかにも、日本の社会学の歴史では欠かせない、日高六郎、城戸浩太郎、南博、副田義也、有賀喜左衛門、中野卓、森岡清美、天野正子、作田啓一、井上俊といったビッグネームを、若手からベテランまで、多くの現役社会学者が論じています。
井上俊先生以外は、すでに鬼籍に入られていますので、今を生きる世代が、先行世代の遺産を受け継ごう、そんな試みです。
でも、それだけですと、単に社会学業界内部の、いわば狭い世界の話だと思われてしまうかもしれません。そうではないんだ、という点は、この本の編者である奥村隆先生の「編者まえがき」に尽くされていますから、屋上屋を架す必要はないでしょう。
それよりも、この本が業界の外にいる人たち=みなさん(あなた)にも大切だと考えるのは、「日本社会」や「日本文明」を論じているからです。
タイトルにある「社会意識論」は、日本社会そのものをとらえようとする試みでした。でも、「社会意識論」とは、社会学とかかわりのない人だけではなく、社会学と接する人たちにとっても、もう、あまり馴染みがない。乱暴に言えば、日本社会をひとりの人間に見立てて、そこに意識がある、と仮定する見方です。社会が意識を持っている、あるいは、社会のなかにある意識をみる、議論です。
とはいえ、「社会」とは何か、「意識」とは何か、そういった疑問が浮かんできます。
この本を読んでいただければ、その問いに対してクリアな答えある、わけではありません。それでも、2段組で400ページに及ぶ、この本は、どこから読んでいただいても、どこを拾い読みしてもらっても、必ず「社会」や「意識」について考えるヒントが散りばめられています。
加藤秀俊先生に照らせば、「中間文化」をキーワードにしていました。「中間文化」とは、ハイカルチャー=高級文化でもなく、サブカルチャー=低級文化でもなく、そのあいだにある、つまりは大衆=わたしたちが楽しむ対象のことです。いまから60年以上前、その代表例として週刊誌や、トリスハイボールをあげていました。
いまは、どうでしょうか?
加藤先生は、2016年の文章で、ユニクロや発泡酒、100円ショップなどを、現代の「中間文化」に並べています。そして、その評価は・・・。その先は、ぜひ、本書を手にとって確かめていただけないでしょうか。みなさんのお考えと、どれぐらい違ったり、重なったりするのか、比べてもらえれば、本書の価格も決して高いだけとは思われないはずです。
学者が集まって論文集を出す営みも、もはや、「戦後」の遺産になってしまう、そんな危機感もまた、この論文集を編んだメンバーには(うすうす、なんとなく)共有されているのかもしれません。
そうしたアカデミックな本がたどってきた「戦後日本」の「社会学的想像力の系譜」は、もう終わってしまうのか、それとも、アップデートされていくのか、そんなところについても、本書から考えていただけるはずです。
社会学って何?そう思っている、すべてのかたに、その学問の魅力を知ってもらえるに違いありません。
編者の奥村隆先生が昨年秋に出した、社会学の歴史についての教科書です。大学院レベルの知識と訓練ができる、歯応えのありすぎる本です。
こちらが第1巻ですが、個人的には、順不同で、面白そうなところから読んでいただきながら、行ったり来たりするのが面白いです。
最後に、わたしの出した、社会学の本です。