「走る哲学者」為末大氏自身の手による初の書き下ろし、しかも編集担当が元DIAMONDハーバード・ビジネス・レビュー編集長の岩佐文夫氏ということで、期待値は出版前から否応なしに高まっていたが、実際に本書を読んでみると、それを遥かに上回る内容だった。
私のような昭和生まれ昭和育ちにとってのスポーツは、『巨人の星』や『あしたのジョー』に代表されるような、ただひたすら気合と根性だけで全てを乗り切ろうとする「スポ根」ものだった。それが、やっとイチローやカズの頃から科学的なスポーツに軸足を移し、令和に入って遂に大谷翔平や三笘薫にまで辿り着いたかということで、言い知れぬ感慨深さがある。
スポーツが筋力や精神力だけでないのは、もうかなり前から常識になっており、現在では科学的トレーニングやメンタルトレーニングが盛んである。しかし、それらがどのように一人の「人間」の中に統合されているのか、統合されるべきなのかを論じた本は殆どなかった。
しかも更にそれを敷衍して、囲碁将棋や伝統芸能などの身体を使って己を表現するあらゆる技能にまで言及している書物は、他に類例がないのではないだろうか。本書が「現代の五輪書」と呼ばれる所以である。
「主観的体験」こそが人を人たらしめる
本書では熟達の探求プロセスを、「遊」から始まり、「型」「観」「心」を経て「空」に至るまでの五段階に分けて論じている。
「遊」とは読んで字のごとく、遊びの感覚である。全ては「面白がる」というところから始まるという原点そのものである。「型」は、我々が無意識のうちに身につけている基本的な動作であり習慣である。「観」は、全体の構造を見極めて、物事の本質を掴むための観察である。「心」とは、自在な動きを可能にする「型」の中心部分、即ち「芯」のことである。そして、「空」は、制約から解き放たれ、自己が解放され、技能が自然な形で表現される熟達の最終段階である。
「空」の世界は、しばしば「ZONE(ゾーン)」とも表現される。ZONEに入ると、一瞬ではあっても主体なき世界を体験できる。全てが関係し合っている未分化の世界である。そして、そこには究極の自由がある。
本書の中で指摘されているように、我々を取り巻く環境要素は全てが相互に関係している。スポーツにせよ何にせよ、方法論を語る場合には、何においても技術や精神面などを要素分解的に切り分けて整理するが、たとえ概念上は切り離せたとしても、人間総体としてホリスティック(包括的)に見た時に、結局どういうことなのかが分からない。
これを総体として捉えた言葉が「熟達」である。そして、それは「人間総体としての探求であり、技能と自分が影響しあい相互に高まること」というのが、本書における「熟達」の定義である。つまり、人間をそのままの存在として捉えて学習していくことなのである。
コンピュータで言えば、人間はシステムの土台を成すソフトウェアOS、技能はそのOSの上で特定の働きをするアプリケーションのようなものである。コンピュータと違う点はアプリケーション(技能)が開発されていくことでOS(人間)も影響を受けてアップデートされ、それらを切り離すことはできないということである。
ここに「熟達」の難しさと同時に奥深さがある。そして、為末氏は、これこそが、「人間にしかできないこと」を理解する上での鍵になるのだと言う。我々人間は、身体を通じて外界を知覚し、それを元に考え行動している。思考し行動する部分はいずれ機械が行えるようになるかもしれないが、知覚は身体なしでは行えない。こうした「主観的体験の有無」こそが、人間と機械との最大の違いだというのである。
ビジネスパーソンが知るべき「心と身体」の使い方
本書の出版イベントとして、8月初めに為末氏とグロービス経営大学院研究科長の田久保善彦氏とのオンライン対談が開催された。その際に、田久保氏から本書はビジネスにも応用できるのかという質問があり、為末氏は、本書は個人競技をやってきた自分の体験に依拠するところが大きいが、一部はビジネスシーンでも活用できるのではないかと答えていた。
しかし、私の拙いビジネス経験からすると、本書の内容は必ずビジネスシーンに活用できる。というのは、本書は単にスポーツ選手など技能の使い手の心と身体の使い方について書かれたものではなく、人生の生き方そのものについての「熟達論」だからである。
スポーツ選手だけではなく、ビジネスパーソンにとっても心と身体の使い方は極めて重要である。それは単に「仕事がうまくいくかどうか?」「会社員として成功(出世)するかしないか?」というような瑣末な議論ではなく、正に自分の人生を「どう生きるか?」という「生き方」そのものに関わってくるからである。
そして、どんな環境においても、我々は必ずその「生き方」を問われる。それがビジネスシーンであろうがなかろうが。
単なる「他人からの評価」でも、ただの「自己満足」でもなく、「自分が人生を生き切ったという充実感や手応えはどこから生まれて来るのか?」……それに対する指針がここに示されているのだと思う。
為末氏は、「熟達」の最大の喜びは、勝負の勝ち負けにではなく、身体を通じて「分かっていく」ことにあると言う。それは、ただ単に頭で分かるのとは違う、「ああそうだったんだ」という深い腹落ち感を伴った理解である。
本書の出版に先立つこと二年前の2021年に放送された、NHKの『こころの時代〜宗教・人生〜』というシリーズの「瞑想でたどる仏教〜心と身体を観察する」という、為末氏と僧侶で仏教学者の蓑輪顕量氏の対談番組がある。この中で二人は、スポーツ選手と僧侶という立場から、仏陀が体得した「体験知」としての瞑想について意見を交わしている。
本書を読んで、この対談が為末氏の到達した考え方に大きく影響しているのだろうと感じた。物事を深く突き詰めていけば、必ず「自分」とどう向き合うのかという問題に行き当たる。その「自分」とは、自分の「心」であり「身体」である。そして、その目指すところは宗教と同じなのである。
人生が劇的に変わるわけではないが、それでいい
本書が一般のスポーツ書やビジネス書と異なる最も大きな特徴は、その結論部分にある。
出版社やプロの著述家が売らんがために作る本は、「役に立つ本」、つまり「それって儲かるの?」という問いに対して明確に答えてくれる、「スポーツやビジネスで成功し、結果的にそれが儲けにつながる実用書」である。
それに対して、本書は次のように言う。
私の経験上、空を体験しても人生が劇的に変わるわけではない。元々のままに人生をまた生きるだけだ。空には教育的効果はない。今までと同じようにうまくいかないことに苦しみ、今までと同じようにサボりたいなという気持ちが芽生え、今までと同じように未来を憂う。(中略)だが、一瞬でも主体となる自我がなくなり、行為のみになる体験はリアリティを変えてしまう。『今を生きる』ことが身体的にわかるようになる。(中略)私は『空』を体験し、なるようにしかならないし、それでいいではないかと思うようになった。決して何をやっても無駄だと投げやりになったわけではないが、起きる出来事に対しただ対応していくのだという受動的ながら静かな気持ちになった。自分の想像の範囲などあまりにも小さいと思ってしまったからだ。私にやれることを私なりにやっていく。目指すもののために今があるのか、今のために目指すものがあるのか、それもよくわからなくなったし、どうでもよくなった。私が生きているのは『今』のみである。
執着はしないが諦めない……今を「生きる」ということの全てがここに凝縮されている。ただの実用書の底の浅さに物足りなさを感じていた全ての人に手に取ってもらいたい一冊である。
※Foresightより転載