本書を手に取った人は幸せである。なにしろ世界初の報告をいち早く日本語で読むことができるのだから。それも公的機関がまとめたような無味乾燥な調査レポートではなく、抱腹絶倒の冒険譚として読める。これはもう何を措いても読むしかない一冊だ。
イラクに〈アフワール〉と呼ばれる湿地帯がある。ティグリス川とユーフラテス川の合流地点付近にひろがる湿地帯で、かつては日本の四国を上回るほどの面積があったという。
この地は昔から戦争に負けた者や迫害されたマイノリティ、犯罪者などが逃げ込むアジール(避難所)で、権力者も手が出せない場所だった。湿地帯は高さ8メートルにも及ぶ葦が生い茂り、その中を迷路のように入り組んだ水路が通る。これでは軍勢も手が出せない。
それゆえアフワールは1990年代までは反フセイン勢力の抵抗の拠点でもあった。怒ったフセインはティグリス川とユーフラテス川に堰を築き、湿地帯に流れ込む水を堰き止めたという。住民たちは移住を余儀なくされたが、フセイン政権が倒れると、堰を壊し再び水を呼び込んだ。現在のところ湿地帯は半分ほど回復し、いまも30~40万人もの水の民が暮らしているという。
アフワールに関しては、イラクが英国の後押しを受けた王国だった1950年代に、ウィルフレッド・セシジャーという著名な英国の探検家が『湿原のアラブ人』という本を残しているものの、1958年に共和制に移行して以降、この地について記した書籍は数えるほどしかない。フセイン時代には訪れることさえ困難になったし、ましてや復活後の湿地帯について書かれた本はなかった。
1990年代以降の状況を伝え、しかも一般読者が読めるようにまとまった報告は本書が世界初という。世界の読者に先駆けてアフワールの実態を知ることができる幸運をぜひ余すことなく享受してほしい。分厚いページに尻込みしてしまう人がいるかもしれないが心配ご無用。本家の『水滸伝』よろしく本書も読みだしたら面白くてやめられない。
水滸伝は『西遊記』『三国志演義』『金瓶梅』と並んで中国四大奇書のひとつに数えられる物語である。汚職や不正がはびこる中国の宋代(10~13世紀)を舞台に、さまざまな理由で町に住めなくなり湿地帯に集まった豪傑たち(水滸伝では「好漢」)が、梁山泊を拠点に悪政を打倒し、国を救うことを目指すという筋書きだ。
本書にも多くの好漢が登場し著者たちを助ける。彼らには本家・水滸伝のキャラクターになぞらえた名が冠される。たとえばアフワール全体に影響力を持つジャーシムには、梁山泊の頭領の名を冠して「ジャーシム宋江」というように。もちろん水滸伝を知らなくてもまったく問題ない。著者のキャラ付けは水滸伝だけによるものではなく、著者たちをマークする公安警察の男は小柄で顔が似ているから「プーチン」だし、世話係のマーヘルは色白の巨漢だから「白熊マーヘル」だったりする。こうした絶妙なネーミングのおかげで登場人物がすんなり頭に入ってきて、読むのがまったく苦にならない。
もうひとつ、本書を読み進む力強いエンジンとなっているのが、著者が掲げる「旅の目標」である。この目標がぶっ飛んでいて、「ほんとに実現するの?」という興味でページを捲る手が止まらなくなってしまう。
今回の旅は、辺境旅のプロ中のプロである著者をしてもさすがにハードルが高かった。まずイラクという国がカオスである。フセイン政権崩壊後のイラクは、イランが後ろ盾のシーア派が実権を握る一方、混乱に乗じてスンニー派の過激派も流れ込み、その中からISが台頭した。ISがイラク第二の都市モスルを占領し、政府軍と激しい戦闘を繰り広げていた当時のニュースを記憶している人も多いだろう。しかも中央政府が弱体化するにつれ、氏族や宗教などのバックボーンを異にする民兵が各地で力を持ちはじめ、武力抗争や暴力事件などを引き起こしていた。
よしんばそのカオスを突破したとしても、その先にはさらに湿地帯というカオスが待ち構えていた。湿地帯は道もなく、村もなく、交渉すべき相手も判然としない。入口までは行けたとしても、そこから先は、著者が培ってきた「辺境旅メソッド」がまったく使えないことが予想された。
この事態を打開するセレンディピティを著者にもたらしたのが、今回の旅の相棒である「隊長」こと山田高司の言葉だった。著者より9歳年上の探検家で、世界の川や湿地帯に通じていることから同行をお願いした人物だ。
故郷の高知県四万十市に住む隊長のもとを訪ね、ユーチューブでみつけた葦と水牛の合間を舟が行き来する湿地帯の映像を見せたところ、「ええ舟やなあ。ええ舟大工がおるんやなあ」と言った。「舟大工」という思いも寄らぬ言葉に刺激され、著者は隊長の別の言葉を思い出す。それは、カヌーを積んだ軽トラを運転しながら、隊長が漏らした言葉だった。
「軽トラは田舎のパスポートや。これだとどこへ行っても警戒されずに済む。よそのナンバーでも、『ああ、俺たちと似たようなやつの車だ』って思われるからな」
その瞬間、著者の中で、「舟大工」と「軽トラ」がスパークして結びついた。
そうだ、湿地帯で舟大工を探して、舟を造ってもらえばいいんだ!
こうして現地で造った舟でアフワールを旅するという壮大な目標ができたのである。
このぶっ飛んだ目標の実現に向けて、著者たちは突き進む。当然思い通りにはいかず、旅は紆余曲折を辿るが、そのプロセスすべてが面白い。巻を措く能わずとはまさに本書のためにある言葉だ。3回にわたって行われる旅の詳細は、ぜひ本を読んでほしい。
本書を読んで強く感じたのは、「現地に行かなきゃわからない」ということである。
いま書店ではビジネス書のコーナーにも関連書が並ぶほど地政学がブームである。地政学は地理的条件に政治的、軍事的条件などを加味して世界地図を鮮やかに色分けしてみせる。読めば世界の枠組みをそれなりに理解できたような気になれるところが人気の秘密なのだろう。だが本書を読むと、その手の本の多くはずいぶん大雑把な内容の代物に思えてしまう。
確かにイランやシリア国境を接するイラクは地政学リスクが高いだろう。外務省のホームページでも退避勧告や渡航中止勧告がうたわれている。安全か/危険かの二者択一でいえば、イラクは危険地域に分類されるに違いない。だがはたして世界は、教科書の図のように単純に色分けできるものなのだろうか。
本書で驚いたことはたくさんあるが、そのひとつが旅人を全力でもてなそうとするイラクの人々のホスピタリティの高さである。それはほとんど常軌を逸したレベルである。知り合った人がことごとく「うちで昼飯を食べていけ」と誘ってくるのだから。応じたら最後、腹がはちきれんばかりの御馳走が出てきて、気がつけば半日がつぶれてしまう。
出てくる料理がどれもむちゃくちゃ旨そうなのにも目を瞠った。砂漠のイメージが強いのに、イラクの国民的料理はなんと鯉!鯉を背開きにしたものを炭火で豪快に焼き、ライムをしぼって食べる。あるいはキュウリやマンゴーのソース、焼きトマトなどと一緒に焼きたてパンに挟んで食べる。読むだけでよだれが出るが、著者たちはあまりの御馳走攻めに、飯時になると腹パンの恐怖をおぼえるようになってしまう。
物事が「友だちベース」でしか進まないところも面白い。ギャラを支払って通訳やコーディネーターを頼もうとすると断られてしまう。ビジネスライクに話ができないのはそれはそれで面倒だが、「義理人情」や「心意気」でしか動かないところは、いかにも水滸伝の好漢を思わせる。
このような現地の人々の気質や暮らしぶりを知れば知るほど、イラクへのイメージが変わってくる。危険地帯を示す赤一色で地図を塗りつぶして済ませるのが、ずいぶんと乱暴な行為に思えてくる。
アフワールの美しい光景も心に残った。浮島の上に葦でつくられた家にお邪魔して夕食を御馳走になった後、好奇心を抑えられない子どもたちから「日本に水牛はいるの?」などと質問攻めにあう。歌を要求され、現地でおぼえた愛のポエムを歌うと(著者はほとんど芸人である)、子どもたちは足をバタバタさせて喜ぶ。眠くなり、屋外で寝転んであおむけになると、まるで夜空全体が落ちてきそうなほどのすさまじい星空が広がっていた――。
アフワールは聖書に描かれた「エデンの園」のモデルだという説もあるという。このような描写を読むと、その説もあながち的外れではないような気がしてくる。
とはいえ、本書は手放しでイラクやアフワールを賞賛しているわけではない。女性の地位は低いし、現地特有の悪しき拉致文化もある。こうした負の側面にも著者はちゃんと目を向けている。ただし、こちら側の価値観を基準に一方的に糾弾するような姿勢ではない。なんというか、もっとフラットに、澄み切った目で文化の違いを見つめているような感じなのだ。偏見やイデオロギーにとらわれない、無色透明な観察眼とでもいうべき視点は、世界の辺境を歩いてきた著者だからこそ身に着けることができたものなのだろう。
それにしても、ほとんど誰も行ったことのない地に足を運び、そこで見聞きしたことをこれだけ面白く読ませる書き手は、世界広しといえども著者だけではないか。できれば本書は各国で翻訳されてほしい。きっと世界中の読者が「こんな書き手がいたのか!」と度肝を抜かれることだろう。これからは著者のことをノンフィクション界の大谷翔平と呼びたい。本書はそんな著者が放った年間ベスト級の特大ホームランである。
著者の「辺境旅メソッド」のひとつが語学力。今回の旅でも著者は凄まじいコミュニケーション能力を発揮する。その秘訣がこの一冊に。
イラクの美食の数々を見て、古い小説を思い出した。ただしこちらはペルシア料理。祖国イランを脱した三姉妹がアイルランドで料理店をひらく。ペルシア料理のレシピも掲載されている。こちらも美味しそう。