「北方謙三は長篇作家」。たしかにそのイメージは強い。『三国志』から始まった中国史シリーズはユーラシア大陸を駆け抜けた『チンギス紀』が2023年7月に完結を見る。男が抱く歴史の大ロマンを25年に渡り書き続けてきたことになる。まさに偉業だ。
だが純文学出身で和製ハードボイルドブームの立役者であったころに培った、情景描写と短いセンテンスで構成された短篇小説が本当に凄いのだ、と私は思っている。
私は北方氏の秘書時代、大長篇を書く傍ら「短篇を書かないと腕が鈍る」と連作短篇連載のスケジュールをこじ開けたことがある。それほど「切れ味」にこだわる作家なのだ。
エッセイは自分をさらけ出しつつ、さらに濃縮された「切れ味」で勝負する。
2014年の年頭に《週刊新潮》誌上で「十字路が見える」の連載が始まったとき、これは自分ができなくなったと判断するまで続けるつもりなんだな、と私は感じた。過去の自分を総ざらえするつもりなのだ、と。
純文学時代を含めれば作家歴は50年以上。下積み時代に始まり、ハードボイルド小説の旗手と呼ばれたのち、それでは自分の作品が縮小再生産になると日本の時代小説へ活路を見出し、さらに世界を広げたいと中国史に取り組んだ。
その間に見聞きし、経験し、知り得たすべてのことを書き残そうとしているんだろう、と毎週楽しみに読んでいたのだ。
昨年春、突然掲載誌から「戦力外通告」をされて連載が終わると書かれていたのを読み、息をのんだ。「何てもったいないことを」と憤慨もした。この連載エッセイが読めなくなるのは哀しい。
何十年も小説界の最前線に立ち、新しい世界を紡ぎ続けた作家の文章は後世に残したいと思った。彼が描いたのはこの時代の息吹であり世相なのだ。
『完全版十字路が見える』が岩波書店から四巻本として刊行されると聞き快哉を叫んだ。単純に私は嬉しかった。だが今回全巻を読み返して、とんでもないスケールのエッセイ集だと驚愕したのだ。
ほとんどは身辺雑記から始まる。若い頃に無理をして時間を作り長期に出かけた海外旅行は、彼の小説の芯の一部になっている。さらに作家の日常が曝け出される。家族、ペット、音楽、映画、友人、料理、海の生活。どの文章を読んでも、今までの体験が自分にどう影響をもたらしたかを書いたうえで、最後に「君」に問いかける。
君はどう思う?君もやってみろよ。まだ言いたいことがあるからもうしばらく付き合えよ。
圧巻は第四巻だ。世の中はコロナ禍で全てが停滞している。作家はこの時代何を残すべきかを悩みならが、この時期を超えた後の将来の希望を記している。
連載が続いていたなら、疫病の時代を抜けた一人の小説家が、過去を内省しながら新しい世界を構築しようとする姿をみせてくれたのではないか推測する。
私はいま、この続きが無性に読みたい。「また、いつか会おう」と締めくくった最後に一縷の望みを持っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
友情、野望、男の夢を描き続ける北方謙三だが、非情で残酷な小説に彼の魅力が濃縮されていると私は思っている。『風樹の剣』からはじまる日向景一郎シリーズ5巻は徹頭徹尾殺伐とした小説である。個人的に景一郎は水滸伝のあの人、とダブる。