「義理の父」というのはなんとも不思議な存在である。妻と出会わなければ知り合うこともなかった男性が、結婚した途端、父親になるのだ。世間の約束事といえばそれまでだけど、だからといって、いきなり仲良くできるとは限らない。どう接していいかわからず、ぎくしゃくしてしまう人も多いのではないだろうか。
本書を読んで、そんな範疇にはおさまらない親子関係もあるのだと知った。著者の場合は義理の父が偉大な映画監督というレアケース。結婚相手の千茱萸(ちぐみ)さんは、大林宣彦監督と恭子さんの一人娘である。著者は大林家の一員でありながらも、義理の息子という立場ならではの観察者的な視点で、名監督の知られざる一面を描いている。読者をおおいに楽しませ、ホロリとさせる、まるで大林作品を思わせるような一冊だ。
本書は「人生で最も緊張した瞬間」から幕を開ける。言わずもがな、もちろん結婚の挨拶だ。なにしろ父親はあの大林宣彦。ふるさとを舞台にした「尾道三部作」や「新・尾道三部作」をはじめ、アイドル映画から作家性の強い実験作まで、豊かなフィルモグラフィーで知られる日本を代表する映画監督だ。ありがちな展開に収まるわけがない。案の定、酔っ払ってしまった著者は、気がつくと鞍を背負っていた。あの乗馬に使う鞍である。大林家のユニークさにのっけから面食らう。
大林監督といえば、トークが抜群にうまいことでも知られた。僕も番組で何度かお目にかかっているが、話が盛り上がり過ぎて、生放送だといつも放送事故寸前まで時間が押した。そのたびにハラハラするのだが、監督の話は面白いだけでなく、味わい深く、言葉が聞く者の心にすっと入ってくる。いつまでも耳を傾けていたくなるような語り口だから、無理もないのだ。
本書にも監督らしい言葉がいくつも出てくる。
「僕がつくったものはまだ映画じゃありません。それがみなさんの心のスクリーンに映ったときにはじめて映画になるんです。映画とは対話です。みなさんがいるから僕がいる。映画というのはリアクションなんです」
「この映画は記録じゃなくて記憶です。記録だと目をそむけたくなるから。そういった写実的な記録ではなくて、芸術的な記憶であれば、人は忘れない。それがピカソが『ゲルニカ』でやったことです」
「戦争を止めるには、戦争とおなじくらいの力がいるんだよ。それは正義じゃなくて、人間の正気。もしも政治家や経済人が正義を叫んだら疑ったほうがいい。正義じゃなくて正気を求める。それが表現者のやることなの」
著者は現在マンガ家として活躍しているが、デビュー前は大林監督の事務所のスタッフとして働いていたこともある。その間は毎日の生活のほとんどを監督と過ごしたという。なんと贅沢な時間だろう。著者は監督から表現者として生きていく上で大切なことをいくつも教わった。
例えば、平田オリザ氏の芝居を一緒に観た時のこと。主人公は異国にいるバックパッカーで、著者は自身がバックパッカーだった頃の思い出を重ねて、おおいに作品に共感した。だから作中のあるセリフについて大林監督に「どう思った?」と訊かれた時も、熱くたぎる思いを興奮して伝えた。ところが監督は「あれは作劇的にね」とまったく違う視点で話し始めた。
大林監督は「平田オリザさんはどういう演出目的であのセリフを書いたのか、そのセリフは物語をドライブさせるどのような仕掛けになっているのか」ということを問いたかったのだ。著者は雷に打たれたような感覚を味わう。つまり監督が「作家の目」で芝居を観ていたのに対し、自分は「観客の目」でしか観ていなかったのだ。マンガ家を目指すのであれば、これからは「観客の目」だけでなく「作家の目」も身につけなければならない……。大切なことに気づけたおかげで、著者は創作者としての第一歩を踏み出すことができた。
このような大林監督の優れた教育者としての一面を本書で初めて知った。監督はしばしば新人アイドルや新人女優を主演に抜擢したことで知られるが、実際に人を育てる天才だったようだ。面白いのは、「お願いする」というかたちで仕事を任せたことである。
映画の製作に入るとかならず、著者は大林監督から撮影台本の表紙に絵を描いてほしいと頼まれたという。かたちとしては依頼だが、その裏には、実地で勉強させる機会を与えたいという親心があったのだろう。著者だけでなく、多くの人が監督からの「お願い」で勉強させてもらい、持っている以上の力を引き出してもらったという。仮に期待にじゅうぶんに応えられなかったとしても、何度でも辛抱強く機会を与えた。千茱萸さんの「しつこいんだよねー」という感想には思わず笑ってしまうが、なかなかできることではない。
本書には大林作品を読み解く鍵となるような話も出てくる。このあたりはファンにはたまらないと思う。
映画のイラストポスターを手がけた和田誠氏や安西水丸氏の作風を「引き算」で都会的と評し、自分自身は「足し算」の人間と話していたこと(確かに映画のタイトルも長いものが多い)。撮影の際、天候の急変や現場のハプニングなどを進んで映画に取り込み、こうした予期せぬ出来事を「上の人たちが見守っててくれる」とまるで天の恵みのように語っていたこと。
新たな作品を手がけるたびに、単なる偶然では片付けられないような、数々の神がかったシンクロニシティがあったことも本書には綴られている。ある人が大林監督を「ナチュラル・ボーン・映画監督」と評したそうだが、本書を読んでいると、まさに映画の神様に愛された一生だったのだと痛感させられる。
大林監督は肺がんを患い、82歳で亡くなった。だが死後もなお、監督が演出したとしか思えないような、ささやかな日常のサプライズに家族は驚かされたりする。そしてそのたびに監督の存在を身近に感じるのだ。今も大林監督は身近な人たちの中で生きている。本書の最後に万感の思いを込めて「父さん」と呼びかける著者の言葉に胸が熱くなった。
本書を読みながら、4年前に亡くなった義父のことを思い出した。理系のエンジニアで、マラソンと山登りが趣味だった。寡黙な人で、自分とは正反対のキャラクターだった。舌先三寸で世の中を渡るような仕事をしている義理の息子を、実際はどう思っていたのだろう。今となってはわからないが、帰省するたびにいつもは飲まない酒を用意してくれていたから、来訪を喜んでくれてはいたのだろう。もっと言葉を交わしておけばよかった。でもびっくりするくらい無口な父だったから、僕が一方的に話しかけるだけだったかもしれない。そんなシュールな光景を想像して思わず笑ってしまった。そして、少し淋しくなった。
本書は新しい才能の登場を告げる一冊でもある。著者のマンガはすでに高い評価を受けているが、文才も素晴らしい。本書が今年エッセイの大きな賞を受賞してもまったく驚かない。大林監督は生前、著者を「ことばの人」と評したという。その慧眼には恐れ入るしかない。やっぱり凄い人だったのだ。
著者のマンガもぜひ読んでほしい。画風は唯一無二。まず水で線を描き、そこに墨を落とし、細部を爪楊枝や割り箸などで描いていくというユニークな手法である。まずは短編集の本書をおすすめしたい。