東京五輪直前の猛バッシングを覚えている人も多いだろう。世間から指弾されたのは、国際的にもその音楽性を高く評価されていたミュージシャン、小山田圭吾だった。だが彼は本当に悪人だったのだろうか?
本書は未曾有の炎上の背景に分け入り、子細な検証を重ねて、この炎上が理不尽な「インフォデミック」、すなわち誤情報のとてつもない拡散によってもたらされた災いだったことを明らかにした労作である。情報社会特有の病理の構造を読み解いた一冊だ。
あらためて概要をおさらいしておこう。
きっかけは、東京オリンピック・パラリンピック開会式の作曲担当のひとりに小山田が選ばれたことだった。ところが、いじめをめぐる過去の雑誌での発言がSNSで拡散され炎上し、内外のメディアでも報じられるに及んで、わずか数日後に辞任を余儀なくされてしまう。
影響はそれだけにとどまらなかった。放送開始以来、楽曲を担当してきたNHK Eテレの『デザインあ』は放送休止となり、メンバーだったバンドMETAFIVEの新アルバムはプレス済みにもかかわらず発売中止となり、ソロプロジェクト「コーネリアス」としてのフジロックフェスティバルへの出演も見合わされた。
問題視されたのは、「ロッキング・オン・ジャパン(ROJ)」1994年1月号と「クイック・ジャパン(QJ)」第3号(1995年8月)のインタビュー内容だった。
「ROJ」の記事で小山田は、裸にした同級生を紐でぐるぐる巻きにして、オナニーを強要し、無理やりウンコを食べさせた上にバックドロップをしたといった内容を、自慢するかのように語っていた。
また「QJ」では、「いじめ紀行」と題された連載にいじめの当事者として登場し、小学校時代、知的障害を持つ同級生を段ボール箱に閉じ込め、黒板消しの粉を振りかけたなどと語っていた。
これらの記事は一部では知られていたが、2000年代に入り、あるブログで悪意に基づく切り取りが行われ、「自慰と食糞を強要し、知的障害者を虐待して楽しんでいた元いじめっ子」という禍々しい人物像がネット上に拡散してしまう。
東京五輪直前の炎上も、政権与党と五輪開催へのアンチで知られるある有力アカウントが、このブログの記事を根拠に批判ツイートしたことがきっかけだった。さらにこの炎上に毎日新聞が飛びつき記事にした。「QJ」の当該記事の写真が添えられてはいたが、雑誌を丁寧に読んでいないことは明らかで、実際には毎日新聞もこのブログ記事をベースにしていた。記者は「この怒りや違和感をどう受け止めますか組織委さん」とツイートした。小山田は、五輪組織委を批判するための格好のネタとして利用された。
著者は小山田の誤った人物像がどうやって作り上げられていったのかを丁寧に検証していく。そのプロセスはふたつに分けることができる。ひとつは雑誌がまだそれなりに力を持っていた1990年代。もうひとつはウェブ全盛の2000年代以降である。
問題の2誌のインタビューはいずれも1990年代のものだ。
まず「ROJ」で語ったいじめだが、これは本人によるものではないことをのちに「週刊文春」(2021年9月23日号)で小山田自身が明らかにしている。学校で目撃したいじめの光景を振り返る内容だったのを、当時の編集長が加害者キャラを際立たせるかたちでまとめてしまったのだ。
なぜ「ROJ」はいじめエピソードを強調したのか。海外では、コーネリアスはYMOに続き日本からやってきた「音楽的事件」ととらえられていた。著者は、小山田圭吾という「日本の音楽史上に類例のない個性」に対し、当時のロック・シーンの中でなんとか居場所を与えようという狙いがあったのではないかと推測している。
つまり、国内では流行のオシャレ系音楽と軽んじられていた小山田を、ロック・シーンの最重要人物として打ち出すために、意外とダークなところもある人物としてキャラ付けしたということだ。事実、この号には、いじめ話を読んで「私初めて小山田を見直しました」などと編集部員が賞賛しているページもある。マッチポンプもいいところだ。
だが、この浅はかな「人格プロデュース」は大失敗だった。それどころか、小山田に生涯消せないかもしれないスティグマを負わせてしまった。
「ROJ」で歪曲されたイメージを修正したかった小山田は、釈明の機会として「QJ」のインタビューを受ける。ところがライターのほうはそもそも「ROJ」での発言を鵜呑みにして企画を立てていた。著者はこれを「破局的な同床異夢」と表現しているが、まさに不幸な組み合わせというしかない。いじめっ子イメージはさらに強化されてしまった。
それでも雑誌の影響力は限定的で、まだ90年代にはこれらの発言が広く知られることはなかった。流れが変わるのは2000年代である。著者によれば、巨大匿名掲示板「2ちゃんねる」の邦楽板の歴代のコーネリアススレッドを振り返ると、13代スレッド(2003年10月1日〜)に初めて「ROJ」のいじめ発言の引用が登場するという。
ここで重要なのは、この時の引用が、細部において不正確なことだ。以降、この引用がそのまま「コピペ」され拡散されていく。原典にあたり間違いを指摘する者などいなかった。そしてコピペが繰り返し貼られるたびに、小山田に対する悪印象だけが増幅されていった。
ウェブ空間では「文脈」が失われる。たとえ何十年前の出来事でも、ウェブ経由で初めて知った人には生々しい事実として受け止められてしまう。その人が怒りに震えSNSにコピペを貼れば、それをまた背景を知らない別の人がシェアする……このプロセスが延々と繰り返される。
著者は、小山田の一件にもちゃんと「文脈」があることを提示する。
実は一連の炎上騒動の中で誰も触れなかったインタビューがある。小山田が障害のある同級生をいじめた根拠とされた2誌に先立ち、彼は『月刊カドカワ』(1991年9月号)のインタビューで、知的障害を持つ同級生との関わりを語っているのだ。
この記事からうかがえる関係性は、「いじめっ子といじめられっ子」といった構図とは著しく印象が異なる。詳しくは本書を読んでほしいが、ごく簡単に言えば、特異な記憶力を持つ同級生に強烈に惹かれた小山田が、畏怖の念といってもいい感情を抱いていたことが伝わってくるのだ。
小学生だった小山田少年は、そんな友だちをダンボールに閉じ込め、毒ガス攻撃だ!と言って黒板の粉をかけた。(この行為については小山田自身も認めている)いじめはよくない。それは当たり前だ。ただこの行為が、小山田が社会的に抹殺されるほどのものだとは到底思えない。
いじめを傍観するのもよくない。「全裸でオナニー強制」を目撃しながら声をあげなかった小山田が批判されるのも仕方ない。だがその事実をもって、彼の全人格を否定し、ヒステリックに糾弾しようとまでは思わない。
「いじめ」と聞いた途端、私たちはある種の思考停止に陥ってしまう。テンプレートが発動し、「絶対に許さん!」と視界が怒り一色に染まってしまう。本書はその危険性も指摘している。
2011年に起きた大津市の中学生自殺事件は、当初は同級生によるいじめが原因とされ、その後「いじめ防止対策推進法」が制定されるきっかけにもなった。遺族が同級生を訴えた裁判では、地裁は2人に約3758万円の支払いを命じた。ところが高裁では賠償額は約400万円まで減額され、最高裁もこの判決を支持した。なぜ二審で一審の判決が変更されたのか。それは、男子生徒の自殺の原因がいじめだけではないと裁判所が判断したためだ。男子生徒は父親の暴力など家庭環境に問題を抱えていた。自殺の直前にも父親から叱責の電話を受け、その約13分後に自宅マンションから飛び降りている。
このことが何を意味するか。物事は単純な物語には回収できないということだ。個々の出来事の背景には複雑に絡み合った事情がある。本書を読めば、「小山田圭吾は凄惨ないじめを行なったのか」ということを検証するだけでも、少なくとも新書一冊分のボリュームが必要であることがわかる。面倒臭いと思う人もいるかもしれない。だが現実はそれだけ複雑なのだ。善悪の二項対立で理解できるほど単純なものではない。
本書は、人間の複雑さを擁護し、単純化の暴力に抗おうとする試みでもある。知性とは、グレーゾーンにとどまり続ける力のことを言うのかもしれない。炎上を繰り返す私たちの社会に、果たして知性はあるのだろうか。