縁日やお祭りの日の思い出の風景といえば、寺社仏閣の境内・参道に立ち並ぶ露店である。焼きそば、お好み焼き、ベビーカステラ、チョコバナナ、等々。ちょっと強面のおじさんが調理してて近寄りがたいけど、周囲の喧噪に呑まれてつい買ってしまう。その後、風の噂で、あのおじさんヤクザらしいよと聞いて、幼心は震え上がる。
しかし、露天商――テキヤを暴力団と同一視するのは誤りである、と著者は力説する。犯罪社会学・社会病理学の研究員で、法務省委託の保護司としても活動する著者は、ジャーナリズムと科学的手法を組み合わせた調査で、反社会的勢力の実状に迫る本を数多く著してきた。そんな「暴力団博士」(ある新聞記者による呼称)が、自身のテキヤでのアルバイト経験と、テキヤで生計を立ててきた人々の証言をもとに書き上げた貴重な記録が本書である。
手始めに、テキヤと暴力団の違いについて簡単に説明した箇所を引用しよう。
ヤクザは人気商売であり、地域密着型の「裏のサービス業」だが、テキヤは売る商品を持っている。顔が見えない商売ではなく、一つひとつの商品を対面で売って、一〇〇円、二〇〇円の利益で細々と商売している。だから、テキヤは暴力団や博徒を指して「稼業違い」という。
ただし、極東会と呼ばれる、テキヤ系暴力団が存在するのも事実である。この団体は戦後から暴力団のようなシノギに手をつけ勢力を拡大、1993年には山口組とも抗争し、警視庁から指定暴力団とされた。こうした経緯に加え、2010年の暴力団排除条例の制定、テキヤの担い手・後継者不足、コロナ禍などが重なり、テキヤ業界は苦難の時代となっている。
縁日において、テキヤ商売は重要かつ大変な肉体労働である。たとえば、出店の配置はその庭場(ヤクザでいう縄張り)の世話人(親分)が取り仕切る。テイタ割りといい、これが杜撰だと、似たような三寸(売場)が隣り合わせになったり、他所からきた商売人(旅人)が良くないポジションに置かれたりして、揉め事や喧嘩の種になる。
また、調理以外にも、迅速な小屋組み、大量の食材の手配、重たくてかさばるガスボンベの運搬など、のんびりしている余裕はない。食中毒など出たら一大事なので、衛生管理にも気を配る。土地代、電気代、ゴミ処理費用にも頭を回す。さらにはお祭り終了後の深夜、境内や参道を徹底的に清掃する仕事も待っている。
このようにテキヤは、お祭りに不可欠の、れっきとした稼業人である。恐れるのは暴対法ではなく食品衛生法であり、庭場で不始末やクレームがあれば世話人の顔に泥を塗ったに等しい。食中毒発生ともなれば親分が土下座して謝罪する。
こうした事態を避けるため、テキヤは緊密な共同体を形成する。若い衆は世話人の子分となって関係を構築し、組織は疑似家族の様相を呈する。家名を持てば、旅人となって他所の庭場でも営業できるようになる。盃事も、社交上やらねばならない。このあたりはヤクザと似通っているし、実際、盃事の作法の腕を買われて、襲名式の媒酌人を務める場合もある。しかし接点はこの程度で、基本テキヤはヤクザを敬遠している、とのことだ。
では、テキヤはどんな人々なのか。この疑問に答えるように、長年香具師として商売してきた二人の半生が綴られる。一人は、「暴力団博士」の評判を知りコンタクトをとってきた、関東の由緒あるテキヤ組織の元世話人。暴排条例によって会社を畳む憂き目に遭っている。もう一人は、本所・深川を本拠地とするテキヤの帳元(親分)かつ人形師の父親のもとに生まれ、それを受け継いだ74歳の女性。
実は本書、この二人の回顧録に大きく紙幅を割いており、もはや調査書というよりルポルタージュである。が、これが、戦後の文化史・社会史を凝縮する濃厚な内容になっており、人間模様も味わい深く、形容するなら「はちゃめちゃに」面白い。
読んだときの興を削がないために詳しくは書かないが、二人の証言に共通するのは、テキヤであったから見えてきた世界である。元世話人は、若い頃相当ヤンチャしたが、あるとき出会った、率先して行動するテキヤ親分の姿に感動し、この稼業に人生を賭けていく。人形師の娘は、博打好きで変わり者の父親に幾度となく悩まされたが、尊敬を集める帳元でもあったがゆえに、テキヤの共同体には随分と助けられてきた。
この父親の言で、印象深いものがある。
「世の中には、ここでしか生きれない人間もいる。そいつらは、おれみたく不器用な人間なんだよ。そのままほっといちゃ、悪さする。ここに括り付けときゃ何とかなるし、お上の世話にもなりゃしねえ」
いろいろとゆるかった昭和の時代だから何とかなっただけで、今はそうではない――と抗弁するのは容易い。だが、社会から落伍したけれど、本気で再出発したいと考えている人たちを受容する仕事が必要なのは言うまでもない。
著者は、今もテキヤ商売を営む人々が「ホワイト化」を考えていることを踏まえ、奇論かもしれないがと前置きしつつ、テキヤのセーフティネット化を提唱している。実現可能性のほどはわからない。だがしかし、個人主義と自由な生き方が定着した一方で、その自由さゆえに人間関係が希薄となり、生きづらさの度合いが増している現代において、本書で示されたような共同体の姿も再考の余地があるように思える。
所詮、人間は独りでは生きていけない。「一丁前になるまで俺が面倒見てやるよ」と言ってくれる、仁義ある人物が少しでも多い世界のほうが豊かで寛容な社会ではないだろうか。