「その悩み、○○学ではすでに解決しています」みたいなタイトルの本を見かけることがある。あなたが日々の仕事で直面する悩みや課題は、すでに最新の学説や理論で解決済みですよ、というわけだ。
だが本当にそうだろうか。最新の学説や理論を応用すれば、世の中の問題はたちどころに解決するものだろうか。
著者は政治学を専門とする大学教授である。「話すも涙、聞くも大笑いの人生の諸々の事情」があって、47歳にして人の親となった。小学校のママ友やパパ友のほとんどは干支一回り以上年下だ。そんなママ友からある日「相談があります」と呼び出され、いきなりこんなお願いをされた。
「来年、PTA会長になってくれませんか?」
まさに青天の霹靂だ。驚いた著者は必死に出来ない理由を並べ立てる。「フルタイム・ワーカー」だから無理!「理屈っぽくて、短気で、いたずらにデカいジジイ」だから無理!ところがママ友は決してあきらめず、最後は情に訴えることで熱血漢の著者の心を動かした。
きっかけとなったのは、飲み会で耳にしたあるママの話だった。
そのママは、PTAの行事の反省会があったせいで、下の子の保育園の運動会を観に行くことができなかった、というのだ。
話を聞いた途端、怒りとともに著者の頭に湧き上がったのは、「そんなこと止めようとなぜ言えないのか」という疑問だった。PTAはボンランティアだ。土曜日の朝から子供たちを楽しませるために一生懸命行事を頑張った。後は早く解散して下の子の運動会に行きたいと考えるのは別に間違っていない。ところが真面目な班長さんが「去年もやったから」という理由で反省会をやると言い出したという。誰もやりたくないのに、なぜそこで「必要ないですよね?」の一言が言えないのか。
酒の席で「そんなのおかしい」と著者は熱弁をふるった。ママ友は巧みにその時のことを持ち出してきた。「そういう悲しいことがこれからも続いてもいいの?」というわけである。義憤にかられた著者は、火中の栗を拾ってしまう。こうして思いがけずPTA会長をやることになった。「半径十メートルのミンシュシュギこそがオレの政治学だ!」と日頃から言っていた著者の真価が、現実を前に試されることになったのである。
本書は著者の3年間にわたるPTA会長体験記である。断っておくが、自慢話ではない。獅子奮迅の活躍で旧態依然としたPTAの改革を成し遂げたといったサクセスストーリーではまったくない。むしろ挫折の記録である。一人の政治学者が世間の壁に跳ね返され、無力さに落ち込み、だがそれでも周囲の人々との交わりの中からヒントを見出し、もういちど日常から思考を組み上げていった。そのプロセスが丁寧に綴られている。本書を読みながら、著者の失敗や試行錯誤に付き合ううちに、気がつけば、社会を変えるための要諦に触れている。これはなかなか凄い本だ。
PTAは、“Parent-Teacher Association”(親と先生との任意団体)の略である。アソシエーションとは本来、出入り自由のサークルのようなもの。だが、ことPTAとなると、なぜか役職は「当たってしまったもの」で、行事は「やらなきゃだめなもの」、決め事は「守らなければならないもの」となる。結果、苦行のようにPTAに関わる人ばかりになってしまう。
著者ものっけから「PTAの不条理」に直面する。
例えば前任者からの引き継ぎ。事前にどれくらい時間をみておけばいいか訊いたら(著者の予想は授業ひとコマ90分程度)、なんと「5時間は必要」とのこと。ならばせめて業務を一覧にして重要度をA・B・Cでランク分けしておいてほしい、とお願いして引き継ぎにのぞむと、当日渡された一覧表には99%の比率でAが並んでいた……。
活動をできるだけスリム化しようとすると、こんどは「ポイント制」が立ちはだかった。PTAへの貢献度を「見える化」するためのやり方として全国で採用されているのが「ポイント制」である。多種多様な活動に応じてポイントを割り振り、一定のポイント数を目安に、6年間の活動を評価するものだ。
その活動の中身はといえば、非効率な古紙回収やベルマーク収集作業、ママたちが「マジ地獄」と忌み嫌う「お月見会」なる地域のお歴々らへの接待など、保護者に負担を強いるものがほとんどだった。
ならば「ポイント制」なんてやめてしまえばいい。だがそう主張すると必ず「これまで頑張ってポイントを獲得した人はどうなるのか」と声があがる。感情的に反発する人に対し、「それは経済学ではサンクコストといって……」などと伝えても無駄だ。ママたちに鼻で笑われて終わりである。
著者も最初は懸命に正論を吐いていた。だがそれはまったく相手に伝わっていなかった。著者を嫌って目も合わせない人たちもいた。あげくにある人からこう言われてしまう。
「岡田さんは、PTAを壊そうとなさっているのですか?」
発言の主は隣の小学校で従来型のPTAの会長業務を完璧にこなしている女性である。これは著者からすれば思いもよらない一言だった。なぜならその真逆だったからだ。
苦しさを我慢しながらの活動、意味不明な慣習、虚しい儀式。それらに異を唱えるのは、PTAを壊すためではなく、PTAをレスキューするためだ。ところが彼女からみれば、壊そうとしているように見えるという。この違いは何か。
ここで著者は大切なことに気づく。リーダーの役割を、どうやらお互いがまったく違うものとしてとらえていたということに。
「先人から引き継がれた手引きをきちんと継承し、それに厳密に対応することで失敗や誤謬の確率を下げる」ことを重視する彼女は、いわば「オペレーター」である。一方、著者が考える「リーダー」は、起きている事態を見極め、「いま我々が立っている地点はここだ」と指し示し、与えられた条件で出来ることを切り分けてメンバーに割り振り、苦しい決断は自ら下し、その結果と責任を引き受ける存在だ。
多くのPTAで不毛な前例踏襲主義が横行しているのは、オペレーターがたまたまリーダーのポジションについてしまったからではないか。うまくいかないわけである。前提の異なる人に対して著者は正論を吐いていたのだ。変わることがもたらす不安に怯え、お手本や前例がないことに恐れを抱く。こうしたオペレーター型の人の心情を理解せず、「なにがそんなに不安なのか」と著者はただ詰問していただけだった。空回りもいいところだ。
「言葉を受け入れる基盤のない人に伝わらない言葉を投げつける」ことの未熟さに著者は気づく。お互いの異なるところばかりが目に入り、共有地平がきちんと存在することを忘れていた。このことに気づいたのが転機になった。
人は「担うべき役割が異なる」。著者はあらためて相手を見極めるようになった。するとそれぞれの役割が見えてきた。次第にPTAの空気も変わり始める。
空気が変わると何が起きるか。著者はこう書く。
空気が変わると「人」が現れるのだ。しかも、グレートな人たちが。
PTAに参加しているのは、ごく普通の人々である。その中から本当に素晴らし人が現れるのだ。この一連のプロセスには、風通しの悪い職場から分断された社会まで、あらゆる組織や集団を変えるためのヒントが詰まっている。このあたりは最大の読みどころなので、詳しくはぜひ本書を読んでほしい。
PTA会長になりたての頃、著者は無力だった。敵意を隠そうともせず反発する保護者を前に、政治学の言葉は役に立たなかった。ところが、対立する相手との間にも共有できる地平があると気づいた途端、著者の政治学は息を吹き返す。
ひとりの生活者として現実と向き合い、さまざまな背景を持つ人々と生身で関わることで、著者の政治学に「世の中のリアル」の息吹が吹き込まれたのだ。錆びついた刀が鍛え直されて再び切れ味を取り戻すかのように、「半径十メートルのミンシュシュギ」の力学が鮮やかに解き明かされていく。
身近な出来事から民主主義社会の核心を取り出してみせる著者の繊細な手つきは見事だ。実践と結びついた生きた学問の凄さを教えてくれる一冊である。