『教科書名短篇 科学随筆集』大自然の前に愚かな自分を投げ出す科学者

2022年5月3日 印刷向け表示
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出版社: 中央公論新社
発売日: 2021/9/22
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科学者がときとして見事な文章を書くことがある。本書は寺田寅彦(1878-1935)や湯川秀樹(1907-1981)など世界的科学者が残した名エッセイから厳選し、文庫オリジナルとして編まれたものである。

しばしば教科書に掲載されてきた科学の随筆だが、実は私自身、国語の時間に中谷宇吉郎(1900-1962)の文章と出会って物理学という非常におもしろい世界があることを知った。彼の文章には、大自然に出会ってその精妙な仕組みを探求する喜びが行間に溢れている。

中谷は「科学以前のこころ」でこう述べる。「非科学的というのは、論理がまちがっているか、知識が足りないことに起因する場合が多い。どんなに間違っていても、とにかく論理のある場合には、その是正は可能であり、知識は零から出発しても、いつかは一定の量に達せしめることができる」(本書74頁)。

また、動物行動学者の日高敏隆(1930-2009)は「チョウの飛ぶ道」で、子ども時代に芽生えた疑問が氷解したエピソードを活き活きと語る。

「ぼくらは大喜びであった。これほど正確に予言できるということは、チョウ道のしくみが完全にわかったということである。小学生のころから20年以上にわたって頭にひっかかっていた問題は、これで解決したのだ!」(242頁)。彼のエッセイは自然を司る仕組みを初心者にも分かりやすく説明してくれる。

さらに数学者の岡潔(1901-1978)は、「オリジナリティー」が生まれる現場を鮮やかに活写する。岡が数学の難問を解決したエピソードはこう書かれる。

あるとき彼は数学の難問に取り組んでいた。「2時間半ほど座っているうちに、どこをどうやればよいかがすっかりわかった。2時間半といっても呼び覚ますのに時間がかかっただけで、対象がほうふつとなってからはごくわずかな時間だった」(175頁)と語る。

この2時間半について岡はこう説明する。「全くわからないという状態が続いたこと、そのあとに眠ってばかりいるような一種の放心状態があったこと、これが発見にとって大切なことだったに違いない」(176頁)。

これは岡潔『春宵十話』(角川ソフィア文庫、光文社文庫)にある有名なエピソードで、私も講義で岡の後輩である京大生たちに常々語ってきた(鎌田浩毅『座右の古典』ちくま文庫を参照)。

意外なことに、理性の高度な発現である数学の発見も、実はこのような直感から生まれるのである。湯川秀樹をはじめとして多くのノーベル賞科学者が「受賞の対象となった発見は偶然の賜物であった」と述懐するのと似ている。

また、戦前の世界的な物理学者である寺田寅彦は、科学の本質についてこう記す。「頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学者にはなれない。人間の頭の力の限界を自覚して大自然の前に愚かな赤裸の自分を投げ出し、そうしてただ大自然の直接の教えにのみ傾聴する覚悟があって、初めて科学者にはなれるのである」(16〜17頁)。

本物の学者ほど、素人の読者が腑に落ちるように書いてくれるものだが、寺田のエッセイから科学の基本知識を得るとともに、科学的なものの考え方を学ぶことができる。

いわば「碩学の名文で身に付く科学リテラシー」と言っても過言ではないだろう。ちなみに、寺田の著作は『天災と国防』(講談社学術文庫)から繙いていただくと良いと思う(鎌田浩毅『理学博士の本棚』角川新書を参照)。

本書には理系人に特有の大胆な発想が、科学者ならではの簡素な文体で書かれている。それも文系の読者にはとても新鮮ではないだろうか。

他にも中公文庫には「教科書名短篇」シリーズとして、人間の情景(2016年)、少年時代(2016年)、家族の時間(2021年)がある。いずれも懐かしい随筆の名文アンソロジーとして薦めたい。

作者: 鎌田 浩毅
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