ありのままに書く。むずかしさと尊さ、2つを見事に両立させた著者に敬服するほかない。
朝日新聞記者である著者は、妻の、そして、みずからの20年を記録する。みじかくない年月は、彼女が、摂食障害にはじまり、性被害、アルコール依存から水中毒、そして、40代での認知症にいたる時間だった。
語弊を承知のうえでいえば、この夫婦は幸せなのだと思う。
著者を、妻を、「大変」とか「不幸」とか、ありきたりのことばでくくるのは、たやすい。「共依存」を心配するむきもあろう。スムーズな生き方ではない以上、部外者は、いくらでも驚いたり、同情したり、悲しんだりできる。
一筋縄ではいかない、どころか、いまもなお、何かが「解決」したわけではない。ハッピーエンドを読んで、解放感を得られる読書ではない。
だからこそ、彼と彼女は幸福なのではないか。
夫婦の絆、などという安直な甘い表現では、到底おさまらない、もっとドロドロして、もっと生々しく、もっと毒々しい、その美しさがここにある。夫婦という関係を、突きつめられるところまで行く、それが、このふたりである。
新聞記者としての著者は書く。
妻は間違いなく、私の問題意識を研ぎ澄ませてくれた。それまで見えなかったものを見せてくれた(p.61)。
著者は、記者である自分を手放さない。彼を支えているのは、この矜持であり、それが、本書を多くの読者へと開いている。
「ぜひ書いてほしい。私みたいに苦しむ人を減らしたいから」(p.137)。半年をかけた筆者とのやりとりでも、妻の思いは揺らがなかった。妻もまた、著者が新聞記者であること、書く人であることを、心の底から誇りにしている。
書きたいエピソードは、星の数ほどあっただろう。その思いをふくめて、おさえきれないものは、たくさんあったにちがいないが、著者は、たった141ページにまとめた。
かといって、無理にちぢめたわけではない。必要にして十分な記述は、感情を押し殺さず、肉声を伝えている。朝日新聞デジタルでの連載を、2018年に半年をかけておこない、4年をかけて加筆をほどこした。著者、妻、編集者、装画、ブックデザインまで、丁寧な仕事が、いっけんすると薄い本に、厚みと奥行きを与える。
本書の帯や紹介文をみて、読んだつもりになるよりも、まずは年譜を開いて、眺めたい。1999年3月の結婚から、2019年7月に妻の認知症が判明するまでの20年のあいだ、2人が直面した出来事が、そのまま書かれている。
この20年、あなたは、わたしは、どのように生きてきただろうか?
年譜に照らして振りかえりながら、この夫婦に起きたいくつもの困難を想像する。
たとえば2005年4月25日におきたJR福知山線の脱線事故は、わたしも現場や関係者を取材していた。そのとき著者と妻に、トラウマをめぐる不可思議な現象が起きていたことは、もちろん知る由もないが、著者の落ち着いた判断には、頭が下がる。
このときに限らず、著者は、上司をはじめ職場の仲間に恵まれている。不満や不安がまったくなかったわけではないだろう。それでも、本書を読むかぎり、彼の冷静で誠実な姿勢が、周囲からの支えを引きだしている。周囲の理解もまた、本書にいたる篤実さを後押しする。
そんな著者が、精神科医療にむけるまっすぐな視線は、現状を声高に批判するだけではない。2007年5月から現在まで、妻の入院は30回を超える。そのほとんどが、本人ではなく家族の同意による「医療保護入院」である。
「身体拘束」をはじめ、「入院は絶対に嫌」と妻は拒んだ。その理由をはじめ、精神科医療の現実については、著者の「正直に告白すれば」(p.56)という感情とともに、本書から、いくらでも学びたい。
妻の摂食障害は、大量に食べてから吐くタイプで、20年前の秋、身長約150センチに対して体重は30キロ台前半まで落ちていた。過食と嘔吐をくりかえす。彼女にとってそれは、つぎのような「部屋」だった。
つらい気持ちでいっぱいになった時、いつでも逃げ込める。そこにいる間だけは安心できる。秘密の場所だから、誰も立ち入らせない(p.16)。
この「部屋」は、幼少期の虐待から逃れるためだった。さらに性被害によって、「自殺願望や幻覚、幻聴、極端な感情の浮き沈みなど、彼女はより複雑な症状を抱えることになった」(p.49)。
ほどなくして、アルコール依存がはじまる。妻だけではなく、著者もまた、限界を超えた。「イネイブリング」と呼ばれる家族が世話を焼く行為だけではない。飲酒を疑う自分と、否認する妻、その関係性を、「夫婦でなく、刑事と被疑者のよう」(p.90)と書くのは、時の経過を感じさせる。
職場の仲間をはじめ、医師や臨床心理士といった、多くの理解者や支援者を得た著者と妻は、幸せである。いや、幸運だったと済ませてはならない。
「社会の無理解が当事者や家族に希望を失わせる」(p.123)。著者の温かい視線がもたらす冷徹な記述を、わたしたちは、どれだけ噛みしめなければならないのだろうか。見せかけの「理解」も「同情」も、いらないどころか、有害である。
書くこと、その業を感じさせてくれる。