本書の主人公は、「霞が関のジローラモ」と呼ばれた異色の官僚である。
ジムで鍛えた厚い胸板の上に派手なストライプ柄やカラフルな色のシャツをまとい、ピンクやパープルなどのネクタイを締める。肌は赤銅色に焼け、髪型は側頭部を短く刈り、頭頂部にふくらみをもたせたソフトモヒカンのようなスタイル。官僚のイメージからおよそかけ離れた外見のこの人物を、いつしか人々はイタリア人タレント、パンツェッタ・ジローラモになぞらえた渾名で呼ぶようになった。
ただし本家がいつも女性と一緒に雑誌の表紙におさまっていたのに対し、「霞が関のジローラモ」こと佐々木清隆氏はそんな色っぽさとは無縁だ。彼はいつも「事件」の傍にいた。それも特殊な事件である。カネボウ、オリンパス、ライブドア、村上ファンド、AIJ投資顧問、東芝、仮想通貨。佐々木氏は、企業監視官としてバブル崩壊後に続発した数々の経済事件を間近で見てきた人物なのだ。本書は企業監視という特異なキャリアを歩んできた男の目を通してみたきわめてユニークな平成史である。
佐々木氏は1961年、足立区千住に生まれた。父は営団地下鉄の職員。母親は専業主婦のかたわら内職で家計を助けていた。ともに高卒だった両親は、成績が良かった息子に期待をかけ中学受験をさせた。塾に通い始めたのが小学6年生の2学期からと遅いスタートだったにもかかわらず立教中学に合格。その後、開成高校、東京大学法学部に進み、1983年に大蔵省に入省した。
キャリアの中では、パリに本部のある経済協力開発機構(OECD)に2度出向した他、国際通貨基金(IMF)に派遣されてワシントンでも働いた。海外生活は約10年に及ぶ。ここだけ切り取れば、いかにも華やかな官僚人生を送ってきたように見えるかもしれない。だが決してそうではない。
佐々木氏はキャリアの大半を検査や調査、審査の部署で過ごしてきた。問題企業の監視や不正の摘発、再発防止策の立案が主な仕事である。主計局や主税局といった大蔵省の主流ではなく、明らかな傍流を歩んできた。だが本書を読んで気づかされるのは、平成を通じてむしろ佐々木氏のいた傍流のほうが時代のメインストリームになったのではないかということである。これまで主流とみなされていたものが力を失い、傍流だと思われていたものが表舞台に躍り出る。平成という時代は実はそういう時代だったのかもしれない。
佐々木氏が社会人になった1983年は、大蔵省が金融の自由化へと動き出したタイミングでもあった。戦前の昭和恐慌で銀行の相次ぐ破綻を招いた経験から、大蔵省は預金者保護を名目として監督権限を強め、金融機関を統制してきた。だがアメリカやイギリスで規制緩和の動きがいち早く始まり、日本は遅れをとった。本書はバブル崩壊後に続発したさまざまな金融不祥事や経済事件を取り上げているが、そこから浮かび上がるのは、世界の構造転換への対応に苦慮する日本の姿だ。
ひとことで言えば、平成以降は、規制緩和の時代だった。時代の趨勢にあわせ規制を緩めていかざるを得ない中で、大蔵省の権限は徐々に縮小していった。だが参入障壁が取り払われ、プレーヤーが増えれば、監督しなければならない相手も増える。法律の隙間をついた新手の金融商品や新しい金融テクノロジーも次々に現れる。本書で描かれるのはこうした事態に当局がなんとか対応しようと悪戦苦闘してきた歴史である。そして、その歴史の中心にいたのが佐々木氏だった。
時代の要請で生まれた金融庁は、霞が関のいわばベンチャー官庁だった。前身の金融監督庁の時代も含めれば、設立からわずか23年の歴史しかないこの新興官庁で、佐々木氏は水を得た魚のように活躍した。一方でそれは、これまでのやり方ではもはや対応できない事態が次々に起きていたことを意味する。
まだ社会人になりたての頃、ある新聞社のベテラン記者に「日本の真の権力者」について教わったことを思い出す。彼は自民党の経世会と宏池会、大蔵省、外務省、検察庁、そしてアメリカの名前をあげた。本書を読むと、平成という時代は、そうしたエスタブリッシュメントが力を失っていった時代だったのがよくわかる。最強官庁と呼ばれた大蔵省は証券不祥事や接待汚職事件でボロボロになっていった。また大蔵省を追及して世間の喝采を浴びた検察も、大阪地検特捜部の証拠改ざん事件をきっかけに権威が失墜した。
本書の中で、時代の転換点として感慨深く読んだのは、2006年のライブドアと村上ファンド事件である。一連の事件で露呈したのは、検察の捜査手法の限界だった。水面下で内偵を続け、ある日突然強制捜査に入るという従来のやり方では、世界経済と連動している株式市場を相手にするには刺激が強すぎる。ライブドア事件では、強制捜査が始まると、東証がライブドア株の大量の売り注文をさばききれなくなり、すべての銘柄の取引停止に追い込まれた。前代未聞の東証の取引停止を目の当たりにした特捜部は慌てふためいたという。
この一件で佐々木氏は学びを得た。世間受けを狙った「犯罪の摘発」ではなく、むしろ「犯罪の未然防止」や「市場の規律維持」のために、監視役である金融当局が柔軟に対応することの方が大切なのではないか。「おかしい」と思う取引があれば、警告を発するだけでも抑止力になるのではないか。そう思い至ったのである。
こうした発想の転換は金融庁のスタンスの変化にもみてとれる。「金融検査マニュアル」を金科玉条とし、銀行を懲らしめるのが使命だと思っていたかつての金融庁は、「金融処分庁」と揶揄され嫌われた。だがこのようなスタイルはもはや時代に合わない。佐々木氏は金融庁の総括審議官として検査局を廃止する組織改革も行なっている。「金融処分庁」から「金融育成庁」へ。こうした大きな方向転換にも佐々木氏は深く関与した。
著者が佐々木氏を初めて取材したのは、ライブドアと村上ファンドの事件がきっかけだったという。佐々木氏は当時、証券取引等監視委員会の特別調査課長だった。この時の取材で印象的だったエピソードがあとがきに記されている。
現職の課長でありながら、佐々木氏は「オフレコ」を一切求めなかった。その後もその姿勢は変わらず、本書の原稿を査読してもらった際も、二、三の事実誤認の指摘を別にすれば、自身にとって不愉快と思われる記述も含め、修正を求めることは一切なかったという。
このあとがきを読んで得心がいった。佐々木氏は真のプロフェッショナルなのだ。著者のことも同じプロとして認めているのだろう。だから余計なことは言わない。実にシビれるエピソードである。
この30年で国際社会は大きく変わった。変化の激流に日本という小舟が否応なしに巻き込まれる中で、金融の現場に佐々木氏のような真のプロフェッショナルがいたことは、この国にとって幸運なことだったのかもしれない。