本は速く読めるにこしたことはないと思っている。だが久しぶりに、1日1章のペースでじっくりと味わいたい1冊が現れた。人体のあらゆるパーツをさまざまな角度から語り尽くし、徹底的に不思議を思議する。一見、当たり前のことほど驚きは深く、身近なものほど奥が深い。こういう感覚を何日にもわたって感じることができるのは、まさに至福だ。
著者はビル・ブライソン。これまで数々の秀作を手掛けたノンフィクションの名手が今回挑んだテーマは人体。本書は、「なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか」という疑問にとことん迫る1冊だ。
皮膚から脳、心臓、そして下半身まで全23章におよぶ本書の視点は、多様にして縦横無尽だ。話題への切り込み方からしてひと味違う。例えば微生物について書かれた第3章。「深く息を吸ってみてほしい。生命の源である豊かな酸素で肺が満たされているような気がするだろう。実を言うと、そうでもない。あなたが吸っている空気の80パーセントは、窒素だ」という書き出しに一気に引き込まれる。
ここから、窒素を役立てるには、まずアンモニアに変換する必要があることに言及し、その仕事の主人公として細菌が登場する。そして視点はヒトから微生物へとダイナミックに移り、微生物の目線で地球が語られていく。
数量的な感覚を刺激する描写が多用されているのも本書の特徴だ。例えば、脳の重さは体重の2%にすぎないのに、エネルギーの20%を使う。これだけだと脳が膨大なエネルギーを消費するように思えるが、1日当たりでは約400キロカロリーと、ブルーベリーマフィン1個分程度であることも書かれているのだ。
だが本書の最大の醍醐味は、パーツと身体全体の間に生じる不思議なねじれを、身体中に見出していることだ。まず前提として、ヒトの身体は全体を分割しても部分にはならないし、部分を積み重ねたとしても全体にはならない。
例えば、耳。3本の小さな骨、いくらかの筋肉と靭帯の束、1枚の繊細な膜、いくつかの神経細胞を与えられたとしよう。これらは耳を構成する要素だが、最新の技術を駆使しても、それらの材料から聴覚経験が得られる装置を作ることなどできないだろう。
同様に、細胞そのものは単なる区画にすぎないが、どういうわけか、それらを1つに集めると生命が生まれる。さらに、細胞の各成分がほかの成分からの信号に反応し、ぶつかり合ったり押し合ったりする無作為な動きがなぜか、全身の円滑な協調行動につながる。これについて著者は、「最も注目すべき点は、指揮者がいないことだ」という。
私たちにとって最も身近なヒトの身体についての興味深い事実が、断片としてではなく前後左右上下に連なって1冊になったのが本書だ。
人体というブラックボックスをいくら分割しても、副題の問いへの答えが出ることはない。しかしその輪郭をさまざまな角度から眺め、問いを立てていること自体が、本書を一級の知的エンターテインメントに仕立てている。
当たり前のことに疑問を感じ、その仕組みに心の底から驚ける大人でありたいものだとつくづく思う。
※週刊東洋経済 2021年10月30日号