ある出来事が、後に振り返った時にあらためて歴史の大きな変わり目だったと気づくことがある。2017年10月5日という日付も、そのような歴史の分水嶺として後世に記憶されるかもしれない。
ニューヨークタイムズがこの日、ハリウッドのプロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの性暴力を告発するスクープを放った。この記事をきっかけに#MeTooムーヴメントが爆発的に広がり、女性たちが声をあげはじめた。
世の中が大きく変わったことを人々に知らしめたのは、2018年5月に世界を駆け巡ったこのニュースだったかもしれない。
「今年のノーベル文学賞の発表は中止」
世界でもっとも有名な文学賞を中止に追い込んだのは、ひとりの女性記者だった。2017年11月21日、スウェーデン最大の日刊紙ダーゲンス・ニューへーテルが、ノーベル文学賞の選考委員に隠然たる影響力を持つ人物の性暴力を告発したのだ。本書はその女性記者による読みごたえあるルポルタージュである。スウェーデンで大ベストセラーとなった話題の一冊だ。
事件の中心人物は、ジャン=クロード・アルノー(1946年生まれ)とカタリーナ・フロステンソン(1953年生まれ)夫妻である。二人は「フォーラム」というサロンを主宰し、ストックホルムのカルチャーシーンに君臨するセレブリティだった。アルノー自身に作品を評価された実績は一切ないが、人々からは《文化人》と呼ばれ、多大な影響力を持っていた。その力の源泉となっていたのが妻のフロステンソンである。彼女はスウェーデンを代表する詩人で、伝統あるスウェーデン・アカデミーの会員でもあった。
スウェーデン・アカデミーは18世紀末、フランスのアカデミー・フランセーズに触発された国王グスタフ3世によって設立された。知名度は本家に遠く及ばなかったが、20世紀の変わり目に状況がガラリと変わる。ノーベル文学賞の選考を担当することになり、世界的に名声が高まったのだ。アカデミーは定員18名で終身制。会員にはさまざまな特権が認められており、メンバーに選ばれることは最高の栄誉とされる。
著者のスクープは、アカデミーの存立をも揺るがした。アルノーとの不適切な関係が明らかになったためだ。対応をめぐり、女性事務局長を筆頭とする改革派と、アルノーを擁護する男性会員を中心とする守旧派が対立し、退会を表明する会員が続出する事態を招いた。その結果、2018年のノーベル文学賞の発表は中止に追い込まれた。
アルノーはフランスのマルセイユ出身で、1968年にストックホルムにやって来たという。文化人やメディア関係者が集うレストランに毎晩のように現れ、まずナイトシーンでその名が知られるようになった。黒髪を後ろに束ね、黒い服を身にまとったアルノーは目立った。しかも口が上手く、社交術に長けていた。
著者はアルノーが語っていた経歴がでたらめだったことを明らかにしている。パリで活躍しているとかオペラハウスを運営したことがあるなどと吹聴していたがすべて嘘だった。パリ高等師範学校卒やソルボンヌ大学で哲学を学んだという話も嘘である。いわば実体のない《文化人》だが、その中身のなさに人々の目を向けさせないだけの華やかさを備えていた。
加えて、アルノーには恐ろしい「才能」があった。言葉巧みに女性を誘い、陵辱し、弱みにつけ込み、脅し、自らの支配下に置く悪魔のような才能である。妻がアカデミー会員であることや、社交界で強い影響力を持っていることを誇示しながら、女性たちを次々に餌食にしていった。フォーラムの薄暗い地下空間やアカデミーがパリに所有するアパルトマンなどが性暴力の現場となった。
著者のスクープは18名の女性の証言をもとにしている(奇しくもアカデミーの定員と同数だ)。証言はどれも目を覆いたくなるような内容で、ここでは詳述は控えるが、ほぼ共通しているのは、いざ事に及ぼうという時にアルノーが豹変し暴力を振るったことである。女性をモノのように扱い、目的を遂げると放り出す。その後もまるで自分の所有物であるかのような態度でつきまとう。
女性たちがどれほど怖い思いをしたかを想像すると胸が痛む。著者は編集部の一角の防音ブースにこもり被害者と連絡をとったが、彼女たちの告白のほとんどの時間は沈黙とすすり泣きで占められていたという。
本書を読むと、女性たちがなぜ声をあげにくいのかがよくわかる。
過去にもアルノーを告発した女性がいたが、この訴えは20年以上も無視された(後に女性は自殺)。アルノーの周囲にはある種の共犯関係が出来上がっていた。友人たちはセクハラを目撃しても「いつものこと」と意に介さず、フロステンソンもこれを黙認していた。あろうことかスウェーデン政府は勲章まで授けた(後に撤回)。こうした環境に守られ、アルノーは犯罪を重ねていたのである。
夫の性暴力が報じられた後、フロステンソンは陰謀説を訴えた。承認欲求過剰な女たちがアルノーや自分を引きずり降ろそうとしており、アカデミーの支配権を握ろうと目論む新聞社がその動きに乗っかった、というのだ。驚くのは、この支離滅裂な主張に同調する男性会員たちがいたことである。
女性事務局長サラ・ダニウスが外部の法律事務所に依頼した調査によれば、アルノーは合計7回、ノーベル文学賞受賞者の名前を事前に漏らしていた。この他、アカデミー会員の人選にも関与していた。また夫妻が運営するフォーラムはアカデミーから助成金を受けていたが、この支給決定にフロステンソン自身が関わっていた。こうした内幕を知ってしまうと、もはやノーベル文学賞に以前のような眩しさを感じることはできない。
一連の内紛を経て、改革派のサラ・ダニウスはアカデミーを追われてしまう。
これに怒った多くの女性が、ダニウスのトレードマークだったボウタイ付きブラウスを身に着けた写真をSNSに投稿し連帯を表明した。
一方、フォーラムは閉鎖され、アルノーはレイプ罪で有罪が確定。フロステンソンもアカデミーを退会することになったが、アカデミー所有のアパートに住み続けるなど一部の特権は保持したままだ。またアルノーを擁護した守旧派の男性会員もいまだアカデミーに居座っている。
性暴力は「魂の殺人」と言われる。アカデミー会員に問いたいのは、魂を殺された人々の声を無視して文学の価値を論ずることに意味などあるのかということだ。毎年ノーベル文学賞の発表を楽しみにしていたが、この程度の連中が選んでいるのなら話は別である。今後は受賞を辞退する作家も現れるのではないか。
著者のスクープが女性たちにもたらしたものは大きい。それは以下の被害女性の言葉を読めばわかるだろう。
「文化の世界がスクープの対象になったことは、芸術への脅威だと言う人もいます。文化に対する軽蔑が高まるとも。けれども私にとっては、その逆でした。あの秋以降に起こったことは、私には別の効果をもたらしました。世の中には守るべき価値があること、そのためには自分の立場を危険にさらす覚悟ができる人々がいることを知りました。誰もが臆病なわけではありません。私はもう一度、創作活動に打ち込めそうな気がします。世界を信頼する人になれそうな気がします」
この世界が信頼するに足るものだと示すこと。
それは本来、文学の役割である。だが本書のように、ひとつの調査報道が、文学をしのぐ役割を果たすことだってあるのだ。